何んでも無い 夢野久作 白鷹秀麿[しらたかひでまろ]兄 足下 臼杵[うすき]利平 小生は先般、丸の内倶楽部[くらぶ]の庚戌会[こうじゅつかい]で、短時間拝 眉[はいび]の栄[えい]を得ましたもので、貴兄と御同様に九州帝国大学、耳鼻 科出身の後輩であります。昨、昭和八年の六月初旬から、当横浜市の宮崎町に、 臼杵[うすき]耳鼻科のネオンサインを掲げておる者でありますが、突然に斯様 [かよう]な奇怪な手紙を差上る非礼をお許し下さい。 姫草[ひめぐさ]ユリ子が自殺したのです。 あの名前の通りに可憐な、清浄無垢[せいじょうむく]な姿をした彼女は、貴 下[きか]と小生の名を呪詛[のろ]いながら自殺したのです。あの鳩のような小 さな胸に浮かみ現われた根も葉もない妄想[もうそう]によって、貴下と小生の 家庭は申すに及ばず、満都の新聞紙、警視庁、神奈川県の司法当局までも、そ の虚構[うそ]の天国を構成する材料に織込んで来たつもりで、却[かえ]って一 種の戦慄[せんりつ]すべき脅迫観念の地獄絵巻を描き現わして来ました彼女は、 遂に彼女自身を、その自分の創作した地獄絵巻のドン底に葬り去らなければな らなくなったのです。その地獄絵巻の実在を、自分の死によって裏書きして、 小生等を仏教の所謂[いわゆる]、永劫[えいごう]の戦慄、恐怖の無間[むげん] 地獄に突落すべく……。 その一見、平々凡々な、何でもない出来事の連続のように見える彼女の虚構 の裡面[りめん]に脈動[みゃくどう]している摩訶[まか]不思議な少女の心理作 用の恐ろしさ。その心理作用に対する彼女の執着さを、小生は貴下に対して逐 一説明し、解剖し、分析して行かねばならぬという異常な責任を持っておる者 であります。 しかもその困難を極めた、一種異様な責任は本日の午後に、思いもかけぬ未 知の人物から、私の双肩に投[なげ]かけられたものであります。……ですから この一種特別の報告書も、順序としてその不可思議な未知の人物の事から書き 初めさして頂きます。 本日の午後一時頃の事でした。 重態の脳膜炎患者の手術に疲れ切った私は、外来患者の途絶[とだ]えた診察 室の長椅子に横たわって、硝子[がらす]窓越に見える横浜港内の汽笛と、窓の 下の往来の雑音をゴッチャに聞きながらウトウトしておりますと、突然に玄関 のベルが鳴って、一人の黒い男性の影が静かに辷[すべ]り込んで来ました。 跳[は]ね起きてみますと、それはさながらに外国の映画に出て来る名探偵じ みた風采[ふうさい]の男でした。年の頃は四十四五でしたろうか。顔が長く、 眉が濃く太く、高い、品のいい鼻梁[はなすじ]の左右に、切目の長い眼が落ち 窪んで鋭い、黒い光を放っているところは、とりあえず和製のシャアロック・ ホルムズといった感じでした。全体の皮膚の色が私と同様に青黒く、スラリと した骨太い身体[からだ]に、シックリした折目正しい黒地のモーニング、真新 しい黒のベロア帽、同じく黒のエナメル靴、銀頭[ぎんがしら]の蛇木杖[すね きうっど]という微塵[みじん]も隙[すき]のない態度風采で、診察室の扉[どあ] を後手[うしろで]に静かに閉めますと、私一人しかいない室内をジロリと一眼 見まわしながら立佇[たちどま]って、慇懃[いんぎん]に帽子を脱[と]って、中 禿[なかはげ]を巧みに隠した頭を下げました。 軽卒な私は、この人物を新来の患者と思いましたので愛想よく立上りました。 「サアどうぞ」とジャコビアン張[ばり]の小椅子[さいどちぇあ]を進めました。 「私が臼杵です」 しかし相手の紳士は依然として黒い、冷たい影法師のように突立っておりま した。ちょっと眼を伏せて……わかっている……といったような表情をした切 り一言も口を利きませんでした。そのうちに青白い毛ムクジャラの手を胴衣 [ちょっき]の内ポケットに入れて、一枚のカード型の紙片[かみきれ]を探り出 しますと、私の顔を意味ありげにチラリと見ながら、傍の小卓子[かーどてー ぶる]の上に置いて私の方へ押し遣りました。 そこで私は滑稽にも……サテは唖[おし]の患者が来たな……と思いながらそ の紙片[かみきれ]を取上げてみますと、意外にも下手な、小学生じみた鉛筆文 字でハッキリと「姫草ユリ子の行衛[ゆくえ]を御存じですか」と書いて在るの です。 私は唖然[あぜん]となってその男の顔を見上げました。背丈[せい]が五尺七 八寸もありましたろうか。 「……ハハア。知りませんがね。だまって出て行きましたから……」 と即答をしましたが、その殺那[せつな]に……サテハこの男が姫草ユリ子の 黒幕だな。何かしら俺を脅迫しに来やがったんだな……と直感しましたので直 ぐに……糞[くそ]でも啖[く]らえ……という覚悟を腹の中で決めてしまいまし た。しかし表面[うわべ]にはソンナ気振[けぶり]も見せないようにして、平凡 な、開業医らしいトボケ方をしておりました。……姫草ユリ子の行衛を知って いないでよかった。知っていると云ったら直ぐに附け込まれて脅迫されるとこ ろであったろう……と腹の中で思いながら……。 相手の紳士はそうした私の顔をその黒い、つめたい執念深い瞳付[めつき]で 十数秒間、凝視[ぎょうし]しておりましたが軅[やが]て又、胴衣[ちょっき]の 内側から一つの白い封筒を探り出して恭[うやうや]しく私の前に置きました。…… 御覧下さい……という風に薄笑いを含みながら……。 白い封筒の中味は、ありふれた便箋[びんせん]でしたが、文字は擬[まが]い も無い姫草ユリ子のペン字で、所々汚なく汚染[にじ]んだり、奇妙に震えたり しているのが何となく無気味でした。 「白鷹先生 臼杵先生 妾[わたし]は自殺いたします。お二人に御迷惑のかからないように、築地の 婦人科病院、曼陀羅[まんだら]先生の病室で自殺いたします。子宮病で入院中 にジフテリ性の心臓麻痺で死んだようにして処理して頂くよう曼陀羅先生にお 願いしておきます。 白鷹先生 臼杵先生 お二人様の妾に賜わりました御愛情と、その御愛情を受入れました妾を、お 憎しみにもならず、親身の妹同様に可愛がって頂きました、お二人の奥様方の 御恩を、妾は死んでも忘れませぬでしょう。ですから、その奥様方の気高い、 ありがたい御恩の万分の一でも報いたい気持から妾は、こんなにコッソリと自 殺するのです。わたくしの小さい霊魂はこれから、お二人の御家庭の平和を永 久に守るでしょう。 妾が息を引取りましたならば……眼を閉じて、口を塞[ふさ]ぎましたならば、 今まで妾が見たり聞いたり致しました事実は皆、あとかたも無いウソとなりま して、お二人の先生方は安心して貞淑な、お美しい奥様方と平和な御家庭を守っ ておいでになれるだろうと思いますから。 罪深い罪深いユリ子。 姫草ユリ子はこの世に望みを無くしました。 お二人の先生方のようなお立派な地位や、名望のある方々にまでも妾の誠実 [まごころ]が信じて頂けないこの世に何の望みが御座いましょう。社会的に地 位と名誉のある方々の御言葉は、たといウソでもホントになり、何も知らない 純な少女の言葉は、たとい事実でもウソとなって行く世の中に、何の生甲斐 [いきがい]がありましょう。 さようなら。 白鷹先生 臼杵先生 可哀そうなユリ子は死んで行きます。 どうぞ御安心下さいませ。 昭和八年十二月三日 姫草 ユリ子」 この手紙は既に田宮特高課長に渡しました実物の写しで、貴下にお眼にかけ たいためにコピーを取っておいたものですが、これを初めて読みました時も私 は、何の感じも受けずにいる事が出来ました。依然として呆[あき]れ返ったト ボケた顔で、相手の鋭い視線を平気で見返しながら問いかけました。 「ヘエ。貴方[あなた]がこの手紙の曼陀羅先生で……」 「そうです」 相手は初めて口を開きました。シャガレた、底強い声でした。 「モウ死骸は片付けられましたか」 「火葬にして遺骨を保管しておりますが……死後三日目ですから」 「姫草が頼んだ通りの手続きにしてですか」 「左様[さよう]です」 「何で自殺したんですか」 「モルフィンの皮下注射で死んでおりました。どこで手に入れたものか知りま せんが……」 ここで相手は探るように私の顔を見ましたが、私は依然として無表情な強直 [こうちょく]を続けておりました。 曼陀羅院長の眼の光りが柔らぎました。こころもち歪[ゆが]んだ唇が軽く動 き出しました。 「先月……十一月の二十一日の事です。姫草さんはかなり重い子宮内膜炎で私 の処へ入院しましたが、そのうちに外で感染して来たらしいジフテリをやりま してね。それがヤット治癒[なお]りかけたと思いますと……」 「耳鼻科医[せんもんい]に診[み]せられたのですか」 「いや。ジフテリ程度の注射なら耳鼻科医[せんもん]でなくとも院内[うち]で 遣[や]っております」 「成る程……」 「それがヤット治療[なお]りかけたと思いますと今月の三日の晩、十二時の最 後の検温後に、自分でモヒを注射したらしいのです。四日の……さよう……一 昨々日の朝はシーツの中で冷めたくなっているのを看護婦が発見したのですが……」 「付添人も何も居なかったのですか」 「本人が要[い]らないと申しましたので……」 「いかにも……」 「キチンと綺麗[きれい]にお化粧をして、頬紅や口紅をさしておりましたので、 強直屍体とは思われない位でしたが……生きている時のように微笑を含んでお りましてね。実に無残な気持がしましたよ。この遺書[かきおき]は枕の下に在っ たのですが……」 「検屍はお受けになりましたか」 「いいえ」 「どうしてですか。医師法違反[いはん]になりはしませんか」 相手は静に私の瞳を凝視した。いかにも悪党らしい冷やかな笑い方をした。 「検屍を受けたらこのお手紙の内容が、表沙汰になる虞[おそれ]がありますか らね。同業者の好諠[よしみ]というものがありますからね」 「成る程。ありがとう。してみると貴下[あなた]はユリ子の言葉を信じておら れるのですね」 「あれ程の容色[きりょう]を持った女が無意味に死ぬものとは思われませぬ。 余程の事が無くては……」 「つまりその白鷹という人物と、僕とが、二人がかりで姫草ユリ子を玩具[お もちゃ]にして、アトを無情に突離して自殺させたと信じておられるのですね…… 貴下[あなた]は……」 「……ええ……左様[さよう]な事実の有無[うむ]を、お尋ねに来たんですがね。 事を荒立てたくないと思いましたので……」 「貴方は姫草ユリ子の御親戚ですか」 「いいえ。何[なん]でも無いのですが、しかし……」 「アハハ。そんなら貴下[あなた]も僕等と同様、被害者の一人です。姫草に欺 瞞[だま]されて、医師法違反を敢[あ]えてされたのです」 相手の顔が突然、悪魔のように険悪になりました。 「怪[け]しからん……その証拠は……」 「……証拠ですか。ほかの被害者の一人を呼べば、すぐに判明[わか]る事です」 「呼んで下さい。怪しからん……罪も報いも無い死人の遺志を冒涜[ぼうとく] するものです」 「呼んでもいいですね」 「……是非……すぐに願います」 私は卓上電話器を取上げて神奈川県庁を呼出し、特高課長室に繋[つな]いで もらった。 「ああ。田宮特高課長ですか。臼杵です。臼杵医院[いいん]の臼杵です。先般 は姫草の件につきまして色々どうも……ところで早速ですが……お忙がしいと ころまことに済みませぬが、直ぐに病院[こちら]へお出[い]で願えますまいか。 姫草ユリ子の行衛がわかったのです。……イヤ死んでいるのです。或る処で…… 実はその姫草ユリ子の被害者が又一人出て来たのです。イヤイヤ。今度のは本 物です。だいぶ被害が深刻なのです。築地の曼陀羅病院長と仰言[おっしゃ]る 方ですが……そうですそうです……聞いた事の無い病院ですが……例の彼女一 流の芝居に引っかかって医師法違反までさせられたという事実を説明しに、わ ざわざ僕の処に来ておられるのですが。姫草ユリ子の自殺屍体の遺骨を保管し ておられると云うのですが……そうですそうです。飛んでもない話ですが事実 です。今ここに待っておられるのです。是非貴方にお眼にかかりたいと云って…… ああ。もしもし……もしもし……モウ曼陀羅院長は帰りかけておられます。帽 子とステッキを持って慌てて出て行かれます。アハアハ。モウ出て行きました。 今、勇敢な看護婦が馳出[かけだ]して見送っております。ちょっと待って下さ い。僕が方向を見届けて報告しますから……あ。服装ですか。服装は一口に云 うと黒ずくめのリュウとしたモーニングです。身長は五尺七八寸。色の青黒い、 外国人じみた立派な痩形[やせがた]の紳士……あ。脅迫用の手紙を忘れて行き ました。アハアハ。この電話に驚いたらしいです。アハアハアハ。……あ。そ うですか。それじゃお帰りがけにお寄り下さい。まだ話がありますから。イヤ どうも失礼……すみませんでした。サヨナラ」 曼陀羅院長は田宮課長の敏速な手配にも拘わらずトウトウ捕まらなかったら しく、今日の日が暮れるまで何の音沙汰もありませんでした。従って彼氏が、 彼女と、どんな関係を持ったドンナ種類の人間であったか。どうして彼女の遺 書[かきおき]を手に入れたか。いつから彼女の蔭身に附添って、どの程度の黒 い活躍をしていたか……といったような事実はまだ推測出来ません。 しかし神奈川県庁から帰りがけの田宮特高課長と同伴して病院に立寄って、 私の提供した姫草ユリ子に関する新事実を聴取[ききと]った田宮特高課長は、 容易ならぬ事件という見込を付けたらしく即刻、東京に移牒[いちょう]する意 嚮[いこう]らしかったのですから、彼女の死に関する真相も遠からずハッキリ して来る事と思いますが、それよりも先に小生は、一刻も早く彼女に関する事 実の一切を貴下に御報告申上げて、後日の御参考に供しておかねばならぬ責任 を感じましたから、斯様に徹宵[てっしょう]の覚悟で、この筆を執っている次 第です。今までは余りに恥かしい事ばかりなので御報告を躊躇[ちゅうちょ]し ておったのですが……否[いな]……今日まで貴下と何等の御打合わせも出来な かったのが矢張[やは]り、彼[か]の不可思議な少女、姫草ユリ子の怪手腕に魅 せられて脳髄を麻痺させられていたせいかも知れませぬが……。 何よりも先に明らかに致しておきたいのは彼女……姫草ユリ子と自称する可 憐の一少女が、昨春三月頃の東都の新聞という新聞にデカデカと書立[かきた] てられました特号標題[みだし]の「謎の女」に相違無い事です。この事実は本 日面会しました前記の司法当局者に、私から説明しましたので、同氏が「容易 ならぬ事件」と認めて、即刻、警視庁に移牒したという理由もそこに在る事と 察しられるのですが、その新聞記事によりますと(御記憶かも知れませぬが) 彼女は、その情夫? との密会所を警察に発見されたくないという考えから、 その密会所附近の警察に自動電話をかけたものだそうです。 「妾は只今××の××という家[うち]に誘拐、監禁されている無垢[むく]の少 女です。只今、魔の手が妾の方へ伸びかかっておりますが、僅かの隙間[すき] を見て電話をかけてるのです。助けて下さい助けて下さい」 と言う意味の真に迫った、息絶え絶えの声を送って、当局の自動車を飛んで もない遠方の方角違いへ逐[お]いやってしまったのです。彼女は斯様[かよう] にして、それから度々警察を騒がせましたので結局、同じ女だという事がわかっ て、極度に当局を憤慨させ、新聞記者を喜ばせた……というのが事実の真相で す。 その無鉄砲とも無茶苦茶とも形容の出来ない一種の虚構[うそ]の天才である 彼女が、貴下の御懸念[けねん]になっている彼女であり、ツイこの間まで白い 服を着て小生の病院内を飛び廻っておりました彼女だったことを、現在、彼女 の身元引受人であった者がハッキリと主張しているのです。そうしてその主張 している理由は彼女の心理状態から押して真実と認められるので、現に警察当 局でもそうした主張の真実性を厘毫[りんごう]も疑っていない次第です。 それにしても渺[びょう]たる一少女に過ぎない彼女が、あらゆる通信、交通 機関の横溢[おういつ]している今の世中[よのなか]に、しかも眼と鼻の間とも いうべき東京と横浜に在る貴下と、私の一家を、かくも長い間、お互いに怪し み、探り合わせながら、どうしても、めぐり合う事が出来ないという不可思議 な、気味の悪い運命に陥[おとしい]れて行くと同時に、彼女自身の運命までも 葬らなければならぬ程の深刻な窮地に陥れて行くべく余儀なくされた、そのソ モソモの動機はどこに在るのでしょうか。 以下は私の日記の抜書を一つの報告文体に作り上げたものです。ですから中 には彼女に関する貴下の御記憶と重複している処もありましょう。又は貴下の 御人格を冒涜するような章句もありましょう。なお又、敬語を抜きにした記録 体に致しましたために、無作法に亘[わた]るような個所が出来るかも知れませ ぬが、何卒[なにとぞ]、悪[あ]しからず御諒読[ごりょうどく]を願います。い ずれもその時の私の心境を率直、如実に告白致したいために、日記の記録する 通りに文章を取纏[とりまと]めたものですから……。 姫草ユリ子が私の病院に来たのは昨、昭和八年の五月三十一日……開業の前 日の夕方であった。見事な、しかし心持、地味なお納戸[なんど]の着物に、派 手なコバルト色のパラソル。新しいフェルト草履[ぞうり]。バスケット一個 [ひとつ]という姿の彼女がションボリと玄関に立った。 「コチラ様では、もしや看護婦が御入用ではございませんかしら……」 診察室の装飾に就いて家具屋と凝議[ぎょうぎ]をしていた私の姉と、妻の松 子とは顔を見合わせて彼女の勇敢さに感心したという。ちょうど二人雇ってい た看護婦では、すこし手が足りないかも知れない……と話合っていたところだっ たので、早速、外来患者室に通して、私と三人で面会して一応の質問と観察を こころみた。 「新聞の広告を見て来たのですか」 「いいえ。ちょうど表の開院のお看板が電車の窓から見えましたので降りて参 りました」 「ハハア。お国はどちらですか」 「青森県のH市です」 「御両親ともそこに居られるのですか」 「ハイ。H市の旧家でございます」 「御両親の御職業は……」 「造酒屋を致しております」 「ほお。それじゃ失礼ですが、お実家[うち]は御裕福ですね」 「ええ。それ程でもございませんけど……妾[わたし]が東京に出る事に就きま しても、両親や兄が反対したんですけど妾、自分の運命を自分で開いてみたかっ たんですし、それに看護婦の仕事がしてみたくてしてみたくてたまらなかった もんですから……」 「それじゃ今では御両親と音信[いんしん]を絶っておられるんですか」 「いいえ、いつも手紙を往復しておりますの。それからタッタ一人の兄も東京 で一旗上げると云って今、丸ビルの中の罐詰[かんづめ]工場に奉公しておりま す」 「学校はどこをお出になったの」 「青森の県立女学校を出ておりますの」 「看護婦の仕事に御経験がありますか」 「ハイ。学校を出ますと直ぐに信濃町[しなのまち]のK大の耳鼻科に這入[は い]りましてズット今まで……」 「そこを出て来た事情は……」 「……あの。あんまり嫌[いや]な事が多いもんですから……」 「いやな事ってドンな事ですか」 「……申上げられません。仕事はトテモ面白かったんですけど……」 「ふうむ。貴女[あなた]の身元保証人は……」 「あの。下谷[したや]で髪結いをしている伯母さんに頼んでおりますの。いけ ないでしょうか」 「どうして兄さんに頼まないんですか」 「伯母さんの方がズット世間慣れておりますし、今までその家[うち]に居った もんですから……きょうも家にジッとしていないでブラブラ町を歩いて御覧。 いい仕事があるかも知れないからってその伯母さんが云いましたもんですから……」 「お名前は……」 「姫草ユリ子と申しますの」 「姫草ユリ子……おいくつ……」 「満十九歳二個月になりますの……使って頂けますか知ら……」 これだけの問答で私等は彼女を採用する決心をしてしまった。私ばかりじゃ ない。妻も姉も、彼女の無邪気な、鳩のような態度と、澄んだ、清らかな茶色 の瞳と、路傍[みちばた]にタタキ付けられて救いを求めている小鳥のような彼 女のイジラシイ態度……バスケット一つを提[ひっさ]げて職を求めつつ街を彷 徨[ほうこう]する彼女の健気[けなげ]な、痛々しい運命に、衷心[ちゅうしん] から吸い付けられてしまっていた。 笑え……私等のセンチの安価さを……誰でもこの問答を一読しただけで、彼 女の身元について幾多の矛盾した点や、不安な点を発見するであろう。少くと も一度、K大の耳鼻科に電話をかけて彼女の身元を幾分なりとも洗って見た上 で雇入[やといい]れるのが常識的である事に気付くであろう。 けれどもその時の私等はそうした軽卒さを微塵[みじん]も感じなかった。彼 女の容姿と言葉付の吸寄せるようなあどけなさが、彼女の周囲を渦巻きめぐっ ているであろう幾多の現実的な危険さに対する私等のアラユル常識を喚起[よ びおこ]して、一種のローマンチックな、尖鋭[せんえい]な同情の断面を作っ て彼女に働らきかけさせた事を私等は否定出来ないであろう。その翌[あく]る 日、 「ねえお姉様。あの娘[こ]が万一[もし]、看護婦が駄目だったら女中にでも使っ てやりましょうよ。ねえ、可哀相ですから」 「まあ。妾[わたし]もアンタがその気ならと思っていたとこよ。追々[おいお い]お客様も殖[ふ]えるでしょうから」 と二人が相談し合ったくらい姉と妻は彼女に対して乗気になっていたらしい。 そればかりじゃない。なおその上にモウ一つ。これは私の職業意識とでもい おうか。私が彼女を見た時に、第一に眼に付いたのは彼女の鼻梁[はなすじ]で あった。 彼女は決して美人という顔立[かおだち]ではなかった。眼鼻立[めはなだち] はドチラかと言えば十人並程度で、色も相当に白かったが、背丈が普通よりも 低く五尺チョットぐらいであったろう。同時にその丸い顔の中心に当る小鼻が 如何[いか]にも低くて、眼と鼻の間の遠い感じをあらわしていたが、それだけ に彼女が人の好[い]い、無邪気な性格に見えていた事は争われない。 私はそうした彼女の顔立をタッタ一目見た瞬間に、彼女の小鼻に隆鼻術をやっ て見たくなったのであった。これ位のパラフィンをあそこに注射すれば、これ 位の鼻にはなる。彼女の小鼻は鼻骨と密着していない、極めて手術のし易いタ チの小鼻であると思った。こうした一種の職業意識から来た愚かな魅惑が、彼 女を雇入れる決心をした私の心理の底に動いていた事も否定出来ない事実であっ た。 こうした私の目的は間もなく立派に達成された。彼女は私の病院に雇われて から一週間と経たぬうちに俄然[がぜん]として見違えるような美少女となって、 病院の廊下を飛びまわる事になった。決して自家広告をする訳ではないが、私 は彼女に施した隆鼻術の効果の予想外なのに驚いたものであった。手術をして やった翌[あく]る朝、薄化粧をして「お早ようございます」と言った彼女の笑 顔を見た瞬間に……これは大変な事をした。飛んでもない美人にしてしまった…… と肝[きも]を潰した位であった。 しかし彼女に対する私達の驚異は、まだまだそれ位の事では済まなかった。 彼女の看護婦としての腕前は申分無いどころの騒ぎではなかった。K大耳鼻 科のお仕込みも去る事ながら、彼女は実に天才的の看護婦である事を発見させ られて、衷心[ちゅうしん]から舌を捲かされたのであった。 彼女が私の病院に来てから間もなく私が或る中年紳士の上顎竇蓄膿症[じょ うがくとうちくのうしょう]の手術をした時に、初めて助手を命ぜられた彼女 は、忙しく動いている私の指の間から、麻酔患者の切開かれ上唇の間に脱脂綿 をスイスイと差込んで、溢[あふ]れ流れる血液を拭き上げて、切開部をいつも 私の眼によく見えるようにして行った。その鮮やかな、狃[な]れ切った手付を 見た時に私はゾッとする位感心させられてしまった。永い年月の間、幾多の手 術に当って来た老成の看護婦でも、こうした手術者の意図に対する敏感さと、 手練の鮮やかさを滅多[めった]に持合わせていないであろう事を、私はシミジ ミ思わせられた事であった。 しかし彼女が開業医なるものの患者に対して如何[いか]に素晴らしい理解を 持っていたか。そのために私等一家が如何に彼女に感謝させられていたか。そ のために病院内の仕事を、殆んど非常識に近いところまで彼女に任かせ切って いたか、そうしてそのために、以下記述するような「謎の女」式の活躍の自由 を、如何に多分に彼女に許しておったかという事実は、恐らく何人[なんぴと] も想像の外[ほか]であろうと思う。 私は開業当時から、誰もするように仕事の時間割をきめていた。午前十時か ら午後一時まで、午後三時から六時迄を診察治療の時間ときめて、六時以後は 直ぐに近くの紅葉坂[もみじざか]の自宅に帰って、家族と一緒に晩餐[ばんさ ん]を摂[と]る事にきめていたが、開業医の当然の責任として、帰ると直ぐに 入院患者から何でも無い苦痛のために慌[あわただ]しく病院に呼戻される。又 は所謂[いわゆる]、草木も眠る丑三時[うしみつどき]に聞分けの無い患者から 呼付けられる事が何度も何度もある事を、当初から覚悟していた。これは医師 として私的に非常な苦痛を感ずる事柄に相違無いのであるが、併[しか]し出来 るだけ勤めてやろう。親切にしてやろう。苦痛を無くするのが目的で、病気を 治すのが目的じゃないのが一般入院患者の心理状態なのだから……といったよ うな悟[さとり]まで開いて待構えていたのであるが意外にも、私が開業以来、 そんな事が一度も無いので、次第に不思議に感じ初めた。或はまだ自宅[うち] に電話が引いてないせいではないかとも思ったが、それにしても怪訝[おか]し いというので、よく姉たちと話合ったものであったがこの不思議は間もなく解 けた。それは実に姫草ユリ子一人の働きである事が、よく注意しているうちに 判明して来た。 彼女は麻酔の醒[さ]める頃合いとか、手術後の苦痛を訴え初める時間とか、 又は熱の高下と、患者の体質と関聯して起る苦痛の度合いとかいうものに就い て看護婦特有の……ソレ以上の親切な敏感さを持っていた。いつも患者が何か 云い出す前に先[せん]を越して手当てをしたり、予告をして慰めたりしていた ものらしい。時としては勝手に患者の耳や鼻を掃除したり洗ったり、甚[はな はだ]しい時は私に断らずにモヒの注射、その他の鎮痛、麻酔手段を取った事 が爾後[じご]の経過によって判明した事もあったが、しかし、それにしても患 者の喜びは大したものであったらしい。ほかの看護婦に訴えてもマゴマゴした り、躊躇[ちゅうちょ]したりしている事を彼女はグングン断行して安静に一夜 を過させたので、臼杵病院の姫草さんと言う名前が、私の名前よりも先に患者 の間に好評を博した事は、決して不自然ではなかった。無論、私が助かった事 も非常なものであるにはあったが……。 そればかりではない。 彼女の持って生れた魅力は事実、男女、老幼を超越したものがあった。この 点では私の家族たちも唯[ただ]一言「エライ」と評するよりほかに批評の言葉 を発見し得ない位、彼女の手腕に敬服していた。 老人は老人のように、小児は小児のように、男は男のように、女は女のよう にと云ってみれば何でもない事ではあるが、そうしたあらゆる種類の患者の病 状を一々親切に聞いてやって、院長たる私を信頼させて、安心して診察、手術 を受けさせて、気楽に入院させて、時としてはその家庭の内情までも聞いてやっ て、同情し、励[はげ]まし、慰めつつ、無事に退院させて遣る……その手際と 言ったら到底、吾々凡俗の及ぶところではない。神経質な、根性のヒネクレた 老人や、ヤンチャな過敏な子供までも、モウ一から十まで姫草さん姫草さんと 持切りで、ほかの二名の看護婦はあれども無きが如き状態であった。アタジケ ない話ではあるが、患者が退院する時なぞは、院長の私のところへ謝礼をする よりも先ず姫草さんに……という傾向になってしまったもので、子供なんぞは 泣いて帰らないという。ヒメちゃんと一緒に病院に居るんだと云って聞かない。 そのほかの患者でも、退院して後[のち]に彼女宛に寄越す礼状の長いこと長い こと。受付、兼、会計係をしている姉が「十二銭も貼るほど手紙に書く事が、 どうしてあるのだろう」と呆[あき]れる位であった。 更に驚くべき事実は(実は当然の帰結かも知れないが)彼女のお蔭で私の患 者がメキメキと激増した事であった。この点、私の開業は非常に恵まれていた と同時に、彼女……姫草ユリ子と名付けるマネキン兼、マスコットに絶大の感 謝を払わなければならなかった。受診に来る患者の甲乙丙丁が、何につけても 姫草さん姫草さんと尋ね求める態度を見ると、ちょうど臼杵病院の中に姫草ユ リ子が開業をしているようで、多少の自信を腕に持っている私も、彼女のこう した外交手腕に対しては大いに謙遜[けんそん]の必要を認めさせられていた次 第であった。 私は彼女に二十円の給料を払っていた。これは決して法外に安い給料とは思 わなかったが、最近、彼女の功績を大いに認めなければならぬ状態を認めて、 姉や妻と寄々[よりより]相談をしていた次第であったが、折も折、ちょうどそ のさ中に、実に奇妙とも不思議とも、たとえようの無い事件が彼女を中心にし て渦巻き起って、遂[つい]に今度のような物凄い破局に陥ったのであった。し かもその破局のタネは彼女自身が撒[ま]いたもので、既に彼女が私の処に転が り込んだ最初の一問一答の中[うち]に、その種子[たね]が蒔[ま]かれていたの であった。 彼女の郷里は青森県の酒造家で、裕福な家らしく聞いていたが、その後の彼 女の朗らかな性格や、無邪気な態度を透して、そうした事実を私等は毛頭疑わ なかった。 一番最初の問答に出た彼女の兄なる人物は、彼女が来てから間もなく倉屋の 黒洋羮[くろようかん]を沢山に持って病院に挨拶に来た。もっともそれは私が 帰宅したアトの事で、誰もその兄の姿を見届けた者は居なかったが、ちょうど 私が自宅で夕飯を終ってから、何らしらデザートじみた物が欲しいと思ってい るところへ、病院の姫草ユリ子から取次電話がかかって来た。 「先生。只今[ただいま]兄がお礼に参りましたの。先生がお好きって妾が申し ましたからってね、倉屋の洋羮を持って参りましたの……イイエ。もう帰りま したの。折角お休息[やすみ]のところをお妨[さまた]げしてはいけないってね。 どうぞどうぞこの後[のち]とも宜しくってね……申しまして……ホホ。そちら へお届け致しましょうか……洋羮は……」 「ウン。大急ぎで届けてくれ。ありがとう」 と返事をしたが、恐らく甘く見られたと言ってもこの時ぐらい甘く見られた 事は無かったろう。 彼女の郷里からと言って五升の清酒と、一樽[たる]の奈良漬が到着したのは、 やはり、それから間もなくの事であった。何でも郷里の人に両親から言付[こ とづけ]た品物だとかで、例によって私が帰宅後に、病院に居残っていた彼女 が受取ったという話であったが、彼女が汗を流して提[ひっさ]げて来た酒瓶と 樽にはレッテルも何も無く、極めて粗末な、田舎臭い熨斗紙[のしがみ]が一枚 宛[ずつ]貼り付けて在る切りであった。一口味わってみた私は、 「ウン。ナカナカ江戸前だな。ピインと来るね。奈良漬も三越のに負けない」 と思わず口を辷[すべ]らしたが、恐らくそれが図星だったのであろう。樽の 縄を始末していた彼女は、ただ赤面した切りでコソコソと病院に逃げ帰ったよ うであった。 尤[もっと]もその時に私は彼女の幸福を祈っている兄や両親の事を思い出し て、相当御念入りにシンミリさせられていたから、彼女のそうしたコソコソし た態度にはチットモ気付かなかった。彼女のアトを見送りながら、 「タッタ二十円しか遣らないのになあ」 とテレ隠しみたような冗談を言った位の事であった。 ところでここまでは誠に上出来であった。この辺で止めておけば万事が天衣 無縫[てんいむほう]で、彼女の正体も曝露[ばくろ]されず、私の病院も依然と してマスコットを失わずにす済んだ訳であったが、好事魔[こうずま]多しとで もいおうか。彼女独特のモノスゴイ嘘吐[うそつ]きの天才が、すこし落付くに 連れて、モリモリと異常な活躍を初めたのは、是非も無い次第とでもいおうか。 彼女の異常な天才が、K大耳鼻科の白鷹君と私の家庭を形容の出来ない、薄 気味の悪い悪夢の中に陥れ初めた原因というのは、恐らく彼女自身も気付かな かったであろう、極めて些細[ささい]な出来事からであった。 お恥かしい話ではあるが開業匆々[そうそう]の好景気に少々浮かされ気味の 私は、いつの間にか学生時代とソックリの瓢軽者[ひょうきんもの]に立帰って いた。つまらない駄酒落[だじゃれ]や、軽口や、冗談を連発して患者の憂欝を 吹き飛ばしたり、 「オイオイ。小さい解剖刀[めす]を持って来い。小さなメスだ。お前じゃない よ。間違えるな」 と姫草に云ったりしたが、そのたんびにユリ子はキャッキャと笑って立働き ながら云った。 「まあ臼杵先生は白鷹先生ソックリよ」 「何だい。その白鷹っていうのは……俺に断らないで俺に似てるなんて失敬な 奴じゃないか」 「まあ。臼杵先生ったら……白鷹先生は、あなたよりもズットお年上で、K大 耳鼻科の助教授をしていらっしゃるんですよ」 「ワア。あやまったあやまった。あの白鷹先生かい。あの白鷹先生なら、たし かに俺の先輩だ」 「ソレ御覧なさい。ホホホ。K大に居る時に白鷹先生は、いつも手術や診察の 最中に色んな冗談ばかり仰言[おっしゃ]って患者をお笑わせになったんですよ。 鼓膜切開の時なんかは、患者が笑うと頭が動いて、トテモ危険なんですけど、 白鷹先生の手術はステキに早いもんですから、患者が痛いなんて感ずる間もな く、笑い続けておりましたわ。そんなところまで臼杵先生のなさり方とソック リでしたわ」 なぞとユリ子は、あとで言訳[いいわけ]らしく説明するのであったが、こう した最大級の真に迫ったオベッカが私のプライドを満足させた事は云う迄もな い。もちろんこれは彼女が、彼女の実家の裕福な事を証明して、彼女の暗い、 醜い前身を隠そう。同時に彼女の儚[はか]ない空想を、現実に満足させようと したのと同じ心理から出た作り事で、彼女がK大耳鼻科、助教授の要職に居る 人から如何に信頼を受けておったかという事を、具体的に証明したいばっかり の一片の虚構に過ぎなかったのであったが、しかしその時の私が、どうしてソ ンナ事に気付き得よう。兼ねてから母校の先輩として尊敬していた白鷹先生の 名前を久し振りに聞いた私は、喜びの余り眼を丸くして彼女に問いかけたので あった。 「ホオ。それじゃ白鷹先生は今でもK大に居られるのかい。チットモ知らなかっ た」 彼女は平気で……否……むしろ得意そうに白鷹先生の話に深入りして行った。 「ええええ。手術にかけたらトテモお上手っていう評判ですわ。妾、こちらへ 参りますまで先生にドレ位可愛がられたかわかりません。奥様からも、それは それは真実[ほんと]の娘のようにして頂きましてね。今にキット良[い]い処 [とこ]へ嫁付[かたづ]けて遣るって仰言[おっしゃ]って、着物なんか幾つも頂 戴[いただ]いて参りましたの。今、平常[ふだん]に着ておりますのも奥さんの お若い時のを、派手になったからって下すったのですわ」 私はスッカリ彼女の話に引っぱり込まれてしまった。蔭ながら白鷹先生に敬 意を表すべく両手を揉み合わせたものであった。 「なあんだ。白鷹先生なら僕の大先輩だよ。九大にいる時分に御指導を受けた んだから、もしかすると僕の事を御存じかも知れない。いい事を聞いた。その うちに是非一度、お眼にかかりたいもんだが……」 「ええ、ええ。そりゃあ必定[きっと]、お喜びになりますわ。先生の事も二三 度お話の中に出て来たように思いますわ。臼杵君はトテモ面白い学生だったっ て、そう仰言ってね」 「ふうん。僕は茶目だったからなあ。お宅はどこだい」 「下[しも]六番町の十二番地。奥さんはトテモ上品でお綺麗な、九条武子様み たいな方ですわ。久美子さんと仰言ってね。先生をトテモ大切になさるんです よ。仲がよくってね……」 「アハハハ。何でもいいから、その中に……きょうでもいいから一度、君から 電話かけといてくれないかね。臼杵がお眼にかかりたがっているって……」 「……まあ。妾なんかが御紹介しちゃ失礼じゃございません……?」 「なあに構うものか。白鷹先生なら、そんな気取った方じゃないんだよ」 そう云って私は姫草ユリ子に頭を一つ下げた。 彼女は、そういう私の顔をすこし近眼じみた可愛い瞳でチョット見上げてい たが、何故か多少、悄気[しょげ]たように俛首[うなだ]れて軽いタメ息を一つ した。聊[いささ]か怨めしそうな態度にも見えたが、しかし私はソレを彼女独 特の無邪気な媚態[びたい]の一種と解釈していたので格別不思議に思わなかっ た。 「……でも妾……看護婦風情[ふぜい]の妾が……あんまり失礼……」 「ナアニ。構うもんか。看護婦が紹介したって先生は先生同志じゃないか。白 鷹先生はソンナ事に見識を取る人じゃなかったぜ」 「ええ。それあ今だって、そうですけど……」 「そんなら、いいじゃないか……僕が会いたくて仕様がないんだから……」 彼女は仕方がないという風に肩を一つユスリ上げた。奇妙な、泣きたいよう な笑い顔をニッコリとして見せながら、 「ええ。妾でよければ……いつでも御紹介[おひきあわせ]しますけど……」 「ウン。頼むよ。きょうでもいい。電話でいいから掛けといてくれ給え」 それはイツモの気軽い彼女には似合わない、妙にコダワッた薄暗い対応であっ た。しかし間もなく平生の無邪気な快活さを取り返した彼女は、さもさも嬉し そうに……恰[あたか]も白鷹助教授と臼杵病院長を紹介する光栄を喜ぶかのよ うにピョンピョンと跳ね上りながら電話室へ走り込んで行った。 その後姿を見送った私は、モウ何も疑わない朗らかな気持になっていたが何 ぞ計[はか]らん。この時既に私は彼女に一杯喰[く]わされていたので、彼女も 亦同時[また]に、彼女の生涯の致命傷となるべき悩みの種子[たね]を彼女自身 の手で萌芽[ほうが]させていたのであった。 彼女の云う白鷹先生というのは、彼女の識[し]っている白鷹先生とは性質の 違った白鷹先生であった。要するに彼女の機智が、私をモデルにして創作した…… 私の機嫌を取るのに都合のいいように創作した一つの架空の人物に過ぎないの であった。しかもその架空の人物と彼女との親密さを私に信じさせる事によっ て、彼女自身の信用を高め、彼女の社会的な存在価値を安定させようと試みて いる一つのトリック人形でしか白鷹先生はあり得ないのであったが、軽率な私 は、そのトリック式白鷹先生の存在を百二十パーセントに妄信させられていた…… 私と同様の気軽な、茶目式の人物と思い込んでしまったために、こんな軽はず みな事を彼女に頼んだ次第であった。 ところが彼女のこうした不可思議な創作能力は、それから更に百尺竿頭百歩 [ひゃくしゃくかんとうひゃっぽ]を進めて、真に意表に出ずる怪奇劇を編み出 す事になった。……というのは御本人の白鷹先生も御存じ無いK大耳鼻科の白 鷹先生から、白昼堂々と電話がかかって来たのであった。 私が開業してから、ちょうど三月目……本年の九月一日の午後三時半頃、彼 女が電話口から診察室に飛んで来た。 「先生。先生。白鷹先生からお電話です」 大勢の患者を診察していた私は驚いて振返った。 「ナニ。白鷹先生から電話……何の用だろう」 「まあ。先生ったら……この間、妾に紹介してくれって仰言ったじゃございま せん。ですから妾、昨日[きのう]お電話でモウ一度そう申しましたの……お忙 がしい時間もチャンとそう云っておきましたのに……今頃お掛けになるなんて……」 と彼女はイクラか不平そうに可愛い眉を顰[ひそ]めるのであった。こうした 技巧と云ったら、それこそ独特の天才というべきものであったろう。実に真に 迫ったものがあった。彼女と、彼女の創作した白鷹先生との親密さに就いて、 微塵[みじん]の疑いをさし挟む余地も無いくらい真に迫ったものであった。 電話に出ていた相手の男性……白鷹先生に非[あら]ざる白鷹先生は、彼女の 説明通りに、如何にも快濶らしい朗らかな声の持主であった。しかも、それが 殆んど私に一言も口を利かせないまま、一気に喋舌[しゃべ]り続けた。 「ヤア。臼杵君か。暫[しば]らく。御機嫌よう。イヤ御無沙汰御無沙汰。景気 はどうだい。ウンウン。姫草から聞いたよ。結構結構。ウンウン。姫草って奴 はいい看護婦だろう。こっちで、あんまり良すぎるもんだから看護婦長から憎 まれてね。飛んでもない濡衣[ぬれぎぬ]を着せられて追出[おいだ]されちゃっ たんだよ。僕の妻[かない]が非常に可愛がっていたんだがね。イヤ。本人も喜 んでいるよ。この間と昨日[きのう]と二度電話をかけてね。君ん処[とこ]は非 常に居心地[いごこち]がよくて働らき甲斐があるってね。そう云うんだ。ウン ウン。妻[かない]も聞いて喜んでいるんだ。何しろ娘みたいに可愛がっていた んだからね。ウンウン。看護婦になるって青森県を飛出[とびだ]したところな んかは少々馬鹿かも知れないがね。看護婦に生れ付いているのだろう。仕事は 実に申分無いんだ。僕が保証するよ。可愛がってくれ給え。ハハハ。イヤ。久 し振りに君に会ってみたいんだが、どうだい。相変らず飲めるかね。ウン結構 結構。……ところで君は在京の耳鼻咽喉科の医者連中がやっている庚戌会[こ うじゅつかい]っていうのを知っているかね。ウンウン。九州にいる時分に聞 いていた。明治四十三年の庚戌の年に出来た会……ウン。それだそれだ、ナア ニ。毎月一回ずつ三日か四日の日に、みんなが寄って旧交を温めたり、不平を 云い合ったりして飲んだくれる会さ。ステキに朗らかな会なんだ。それが来月 は三日にきまったからね。場所は丸の内倶楽部……午後六時からなんだが、君 やって来ないか。会費なんかその時次第だがイクラもかからない。ウン是非来 てくれ給え。ウンウン。アハアハ。まだお眼にブラ下[さが]らないが奥さんに もよろしく……」 と云ううちに時間が切れてしまった。私が受話器をかけると直ぐ横に彼女が 立っていて、可愛らしく小首を傾[かし]げながら、 「まあ。断[き]っておしまいになったの。あたしからもお話したかったのに…… でも、どんなお話でしたの……」 と心配らしく眼を光らしているのであった。 「ウン。驚いたよ。恐ろしくザックバランな先生だね。少々巻舌[まきじた]じゃ ないか」 「……でしょう。ね、それあ面白い方よ」 それから電話の内容を話して聞かせると、如何[いか]にも安心したらしく、 さも嬉し気にピョンピョン跳ねて廊下を飛んで行くのであった。 「ホントに白鷹先生ったらスッキリした、いい方だったわ。親切な方……妾大 好き……」 なぞと感激に満ち満ちた、軽い独言[ひとりごと]を云いながら……すこしの 不自然もなく私に聞こえよがしに云いながら……。 ところが、それから二日目の朝、私が出勤すると間もなく、平生[いつ]にな く不機嫌な顔をした彼女が、揉[も]みくしゃにした便箋を手に握りながら、妙 に身体[からだ]をくねらして私の前に立った。可愛い下唇を反[そ]らして云う のであった。 「ほんとに仕様の無い。白鷹先生ったら。仕事となると夢中よ」 「どうしたんだい。独りでプンプンして……」 「いいえね。昨夜の事なんですの。白鷹先生から妾へ宛ててコンナ速達のお手 紙が来たんですの。きょうの午後に平塚の患者を見舞いに行くんだが帰りが遅 くなるかも知れない。だから庚戌会へも行けないかも知れない。お前から臼杵 先生によろしく申上げてくれって云うお手紙なんですの。ほんとに白鷹先生っ たら仕様の無い。稼ぐ事ばっかし夢中になって……キット平塚の何とかいう銀 行屋さんの処ですよ。お友達と下手糞[へたくそ]の義太夫の会を開くたんびに、 白鷹先生を呼ぶんですから、それが見栄[みえ]なんですよ。つまらない……」 「アハハ。そう悪く云うもんじゃないよ。そんな健康な、金持の患者が殖[ふ] えなくちゃ困るんだ。耳鼻科の医者は……」 「だって久し振りに先生と会うお約束をしていらっしゃるのに……」 「ナアニ。会おうと思えばいつでも会えるさ」 「だって……」 と口篭りながら彼女は如何にも不平そうな青白い眼付で、私の顔を見上げた。…… が……この時に私がモウ少し注意深く観察していたら、彼女のそうした不安さ が尋常一様のものでなかった事を容易に看破し得たであろう。「会おうと思え ばいつでも会える」と云った私の言葉が、彼女にドレ程の深刻な不安を与えた か……彼女をドンナに恐ろしい脅迫観念の無間地獄[むげん]に突落したかを、 その時に察し得たであろう。……自分の実家の裕福な事を如実[にょじつ]に証 明し、同時に、自分の看護婦としての信用が、如何に高いものが在るかをK大 助教授、白鷹先生の名によって立証すべく苦心していた彼女……彼の「謎の女」 の新聞記事によって、この時既に社会的の破滅に脅威されかけている彼女自身 の自己意識を満足させると同時に、彼女自身だけしか知らない驚くべき謎に包 まれている彼女の過去を、完全に偽装[かもふらーじゅ]しようと試みていた彼 女の必死的努力は、本物の白鷹先生と私とが直接に面会する事によってアトカ タも無く粉砕される事になるではないか。彼女は、彼女自身に作り上げている 虚構[うそ]の天国の夢をタタキ破られて、再び人生の冷い舗道[ほどう]の上に 放逐[ほうちく]されなければならなくなるではないか。こうした女性にとって、 そうした幻滅的な出来事が、死刑の宣告以上に怖ろしいものである事は現代の 婦人の……特に少女の心理を理解する人々の容易に首肯[しゅこう]し得るとこ ろであろう。 事実、こうした破局に対する彼女の予防手段は、それが後、真に死物狂[し にものぐる]い式なものがあった。 「厘毫[りんごう]の間違いが地獄、極楽の分れ目」という坊主の説教をそのま まに、彼女は自分自身を陥れる、身の毛の竦立[よだ]つ地獄絵巻を、彼女自身 に繰拡[くりひろ]げて行ったのであった。 その九月も過ぎて、十月に入った二日の朝、彼女は又も病院の廊下でプリン プリンと憤[おこ]った態度をして私の前に立った。 「どうしたんだい、一体……又、器械屋の小僧と喧嘩でもしたのかい」 「いいえ。だって先生。明日[あした]は十月の三日でしょう」 「馬鹿だな。十月の三日が気に入らないのかい」 「ええ。だって毎月三日が庚戌会の期日じゃございません」 「あ……そうだっけなあ。忘れていたよ」 「まあ。そんなところまで白鷹先生とそっくり。先生は庚戌会へお出でになり ませんの」 「ウン。白鷹先生が行くんなら僕も行くよ」 「この間お約束なすったんじゃございません」 「イイヤ。約束なんかした記憶[おぼえ]はないよ」 「まあ。そんならいいんですけど……」 「どうしたんだい」 「ツイ、今しがた白鷹先生からお電話が来ましたのよ。臼杵先生はまだ病院に いらっしゃらないのかって……」 「オソキ病院のオソキ先生ですってそう云ったかい」 「まあ。どうかと思いますわ。いつも午前十時頃しか居らっしゃいませんって 申しましたら、きょうは風邪を引いて寝ちゃったから、庚戌会へは失敬するか も知れないって仰言るんですね。妾キット先生とお約束なすってたのに違い無 いと思って腹が立ったんですよ。何とかして会って下さればいいのに……」 「それあ会おうと思えば訳は無いよ。しかし妙に廻[めぐ]り合わせが悪いね」 「ホントに意地の悪い。きょうに限って風邪をお引きになるなんて……妾、電 話で奥さんに文句云っときますわ」 「余計な事を云うなよ。それよりも、今から妾がお勧めして臼杵先生をお見舞 いに差出そうかと思いますけど、共喰いになる虞[おそれ]がありますから、失 礼させますって、そう云っとき給い」 「ホホホホ。またあんな事。それこそ余計な事ですわ」 「ナアニ。そんな風に云うのが新式のユーモア社交術って云うんだ。奥さんに も宜しくってね」 こんな訳で白鷹先生に非[あら]ざる白鷹先生に対する私の家族の感じは、姫 草ユリ子を仲介として日に増し親密の度を加えて来た。のみならず、ちょうど 私が箱根のアシノコ・ホテルに外人を診察に行く約束をした日の早朝に白鷹氏…… 否、白鷹先生ならぬ白鷹先生から電話がかかって、 「この間は済まなかった。いつも間[ま]が悪くて君に会う機会が 無い。きょ うは歌舞伎座の切符が二枚手に這入ったから一緒に見に行かないか。午後一時 の開場だから十時頃の電車で銀座あたりへ来てくれるといい。君の知っている カフェエかレストランがあるだろう」 という話だったり、生憎[あいにく]、私が行けないと姫草が云ったとかで、 あとから歌舞伎座の番組と一所に妻と子供へと云って風月[ふうげつ]のカステ ラを送って来たりした。しかもその小包に添えた手紙を見ると紛[まぎ]れも無 い男のペン字で、相当の学力をもったインテリ式の文句であった。だからこち らでも非常に恐縮して、折よく故郷から送って来た鶏卵素麺[けいらんそうめ ん]に「今度の庚戌会へは是非とも出席します」という意味の手紙を添えて、 下六番町の白鷹先生宛に送り出したが、それは何処へ届いたやら、或は横浜の 臼杵病院を一歩も出なかったかも知れないと思う。その手紙や小包を渡して、 送り出すように命じたのが、外[ほか]ならぬ姫草ユリ子だったから……。 ところが、それから十一月の初旬に入ると、彼女は又も大変な失策を演じた。 もちろん、それは彼女自身から見ると、いかにも巧妙な、水も洩らさぬ筋書に 見えたのであろうが、それがアンマリ巧妙過ぎたために、おぞましくも私等一 家から、彼女自身の正体を見破られる破目[はめ]に陥ったのであった。 私の日記を飜[ひるがえ]して見ると、それはやはり十一月の三日、明治節の 日であった。彼女が事を起すのは、いつも月末から初旬にかけた数日の中[う ち]で、殊に白鷹先生から電話がかかったり、手紙が来たりするのは大抵三日 か四日頃にきまっているのであった。そこにこの「謎の女」の神秘さがあった 事を神様以外の何人[なんぴと]が察し得たであろう……。 その十一月の三日のこと。シトシト雨の降り出した午前十時頃、私が病院に 出勤すると、玄関の扉[どあ]の音を聞くや否や、彼女が薬局から飛出して、私 の胸に飛付きそうに走りかかって来た。唇の色まで変ったヒステリーじみた表 情をしていた。 「まあ先生。どうしましょう。タッタ今電話がかかって来たのです。白鷹先生 の奥さんが三越のお玄関で卒倒なすったんですって。そうして鼻血が止まらな くなって、今お自宅[うち]で介抱を受けていらっしゃるんですって……」 「それあ、いけないねえ。何時頃なんだい」 「今朝、九時頃っていうお話ですの……」 「ふうん。それにしちゃ馬鹿に電話が早いじゃないか。何だって俺んとこへ、 そんなに早く知らせたんだろう」 「だって先生。此間[こないだ]のお手紙に、今度の庚戌会で是非会うって、お 約束なすったでしょう」 「ウン。あの手紙を見たのかい」 「あら。見やしませんわ。ですけどね。今度の庚戌会は大会なんでしょう。明 治節ですから……」 「ふうん。僕は知らなかったよ」 「あら。此間[こないだ]、案内状が来てたじゃございません」 「知らないよ。見なかったよ。どんな内容だい」 「何でもね。今度の庚戌会は、ちょうど明治節だから久し振りの大会にするか ら東京市外の病院の方々も参加を申込んで頂きたいって書いてありましたわ。 あの案内状どこへ行ったんでしょう」 「ふうん。そいつは面白そうだね。会費はイクラだい」 「たしか十円と思いましたが……」 「高価[たけ]えなあ」 「オホホ。でも幹事の白鷹先生から、臼杵先生に是非御出席下さいってペン字 で添書がして在りましたわ」 「ふうん。行ってみるかな」 「あたし、先生がキットいらっしゃると思いましたからね。それから後[のち] お電話で白鷹先生に、今度こそ間違ってはいけませんよって念を押したら、ウ ン。臼杵君からも手紙が来た。おまけに幹事を引受けたんだから今度こそは金 輪際[こんりんざい]、ドンナ事があっても行くって仰言ったんですの。そうし たら又きょうの騒ぎでしょう。あたし口惜[くや]しくて口惜しくて……」 「馬鹿、そんな事を口惜しがる奴があるか。何にしてもお気の毒な事だ。いい 序[ついで]と云っちゃ悪いが、お見舞いに行って来て遣[や]ろう」 「まあ先生。今から直ぐに……?」 「うん。直ぐにでもいいが……」 「でも先生。アデノイドの新患者が三人も来ているんですよ」 「フーム。どうしてわかるんだい。鼻咽腔肥大[あでのいど]ってことが……」 「ホホ。あたし、ちょっと先生の真似をしてみたんですの。患者さんの訴えを 聞いてから、口を開けさせてチョット鼻の奥の方へ指先を当ててみると直ぐに 肥大[あでのいど]が指に触[さわ]るんですもの」 「馬鹿……余計な真似をするんじゃない」 「……でも患者さんが手術の事を心配してアンマリくどくど聞くもんですから…… そうしたら三人目の一番小ちゃい子供の肥大[あでのいど]に指が触ったと思っ たら突然[いきなり]、喰付かれたんですの……コンナニ……」 と附根の処を繃帯した左手の中指を出して見せた。 「……見ろ。これからソンナ出裟婆[でしゃば]った真似をするんじゃないよ」 と戒めてから私は平常[へいぜい]の通り診察にかかったが、彼女は別にお見 舞に行こうとする私を強[し]いて止めようとする気色も見せなかった。 しかし午後一時から三時までの私の休息時間が来て、程近い紅葉坂[もみじ ざか]の自宅に帰ろうとすると、その玄関で彼女が又も私の前に馳け寄りなが らシオシオと頭を下げた。 「先生。済みませんけど、きょうの午後から、ちょっとお暇を頂きたいんです の」 「うん。きょうは手術が無いから出てもいいが……どこへ行くんだい」 「あの……白鷹先生の奥様の処へ、お見舞に行きたいんですの。どうしても一 度お伺いしなければ……と思いますから……」 「うん。それあ丁度いい。僕も今夜あたり行こうと思っているんだから、そう 云っといてくれ給い」 「ありがとうございます。では行って参ります」 「気を付けて行っといでよ。お天気もモウ上るだろう」 彼女と私とがコンナ風にシンミリとした憂鬱な調子で言葉を交した事はこの 時が初めてだったように思う。何となく虫が知らせたとでも言おうか。それと もこの時既に、白鷹先生の事に関して、絶体絶命の破局にグングン追い詰めら れつつ在る事を自覚し過ぎる位、自覚していた彼女自身の内心の遣[や]る瀬無 [せ]い憂鬱さが、私の神経に感じたものかも知れないが……。 いつもの通り病院を仕舞った私は、雨上りの黄色い夕陽[ゆうひ]の中を紅葉 坂の自宅に帰って、夕食を仕舞った。その序[ついで]に、白鷹夫人のきょうの 出来事を比較的明るい気持で喋舌[しゃべ]っていると、そのうちに黙って給仕 をしていた妻の松子がフイッと大変な事を云い出した。 「ねえあなた。姫草さんの話は、あたし、どうも変だと思うのよ」 「……フウン……ドウ変なんだい」 「あたし此間[こないだ]からそう思っていたのよ。姫草さんが紹介した白鷹先 生に、貴方[あなた]がどうしてもお眼にかかれないのが、変で変で仕様がなかっ たのよ」 「ナアニ。廻[まわ]り合わせが悪かったんだよ」 「いいえ。それが変なのよ。だって、あんまり廻り合わせが悪る過ぎるじゃな いの。あたし何だか姫草さんが細工して、会わせまい会わせまいと巧謀[たく ら]んでいるような気がするの」 「ハハハ。『どうしても会えない人間』なんて確かにお前[まい]の趣味だね。 探偵小説探偵小説……」 ことわっておくが妻の松子は、女学校時代から「怪奇趣味」とかいう探偵趣 味雑誌の耽読者で、その雑誌にカブレているせいか、頭の作用が普通の女と違っ ていた。麻雀の聴牌[てんぱい]を当てる位の事はお茶の子サイサイで、職業紹 介欄の三行広告のインチキを閑暇[ひま]に明[あ]かして探り出す。又は電車の 中で見た婦人の服装から、その婦人の収入と不釣合な生活程度を批判する…… といったような一種の悪趣味の持主であった。だから吾妻[わがつま]ながら時 折は薄気味の悪い事や、うるさい事も無いではなかったが、しかし、そうした 妻の頭の作用[はたらき]に就いて私が内心些[すく]なからず鬼胎[おそれ]を抱 [いだ]いていた事は事実であった。 だからこの時も姫草看護婦に対する疑いを、普通一般の嫉妬[やきもち]と混 同するような気は毛頭起こらなかった。また彼女の変痴気[へんちき]趣味が出 たな……ぐらいにしか考えなかったが、それでも、そうした彼女の姫草ユリ子 に対する疑いが、何かしら容易ならぬ大事件になりそうな予感だけはハッキリ と感じたから、念には念を入れるつもりで私は、彼女の考えを一応、検討して みる気になった。 「白鷹先生に、どうしても俺が会えないのが不思議と云えば不思議だが、論よ り証拠だ。今夜は是[これ]から出かけて行って、是が非でも会って来るつもり だから、いいじゃないか」 「ええ。……でもお会いになったら……何だか大変な間違いが起こりそうな気 がして仕様がないのよ……あたし……」 「アハハ。二人が出会った途端[とたん]にボイインと爆弾でも破裂するのかい」 「ええ。そういったような予感がするのよ。幾度タタイても爆発しなかった分 捕[ぶんどり]の砲弾が、チョイと転がったハズミに爆発して、何もかもメチャ メチャになった新聞記事があったでしょ。今度の事もソレに似てるじゃないの。 何だか妾[わたし]、胸がドキドキするわ」 「アハアハ。イヨイヨ以て怪奇趣味だ。しかも漫画趣味だよ。アダムスンか何 かの……」 「オホホ。もっとスゴイ感じよ」 「アハハ。悪趣味だね。それでも今日会えなかったら一体どうなるんだい話は……」 「いいえ。妾、今夜こそキット貴方が白鷹先生にお会いになれると思うのよ。 そうしたら何もかもわかると思うのよ」 「名探偵だね。どうして会えるんだい」 「今夜の庚戌会は何処であるんでしょう」 「やはり丸の内倶楽部さ」 「今からそこへお出でになったらキット白鷹先生が来ていらっしゃると思うの よ」 「馬鹿な。奥さんが病気なのに来るもんか」 「プッ。馬鹿ね貴方。まだ信じていらっしゃるの。白鷹の奥さんの卒倒騒ぎを……」 「信じているともさ……だからお見舞に行くんじゃないか」 「お見舞に行くのを止して頂戴……そうして知らん顔して庚戌会へ出席して御 覧なさいって言うのよ。キットほんとの白鷹先生がいらっしゃるから……」 「……ほんとの白鷹先生。ふうん。つまり、それじゃ今迄の白鷹先生は、姫草 ユリ子の創作した影人形だって云うんだね」 「ええそうよ。何だかそんな気がして仕様がないのよ。あの娘[こ]の実家が裕 福だっていうのも、当てにならない気がするし、年齢[とし]が十九だって云う のも出鱈目[でたらめ]じゃないかと思うの……」 「驚いた。どうしてわかるんだい」 「あたし……あの娘[こ]が病院の廊下に立佇[たちど]まって、何かしらション ボリと考え込んでいる横顔を、この間、薬局の窓からジイッと見ていた事があ るのよ。そうしたら眼尻と腮[あご]の処へ小さな皺[しわ]が一パイに出ていて ね。どうしても二十五六の年増[としま]としか見えなかったのよ」 「ふうん。何だか話がモノスゴクなって来たね。姫草ユリ子の正体がダンダン 消え失せて行くじゃないか。幽霊みたいに……」 「そればかりじゃないのよ。その横顔をタッタ一目見ただけで、ヒドク貧乏臭 い、ミジメな家[うち]の娘[こ]の風付[ふうつ]きに見えたのよ。お婆さんじみ た猫背の恰好になってね。コンナ風に……」 「怪談怪談。妖怪[おばけ]エー……キャアッと来そうだね」 「冷やかしちゃ嫌[いや]。真剣の話よ。つまり平常[いつも]はお化粧と、気持 ちで誤魔化[ごまか]して若々しく、無邪気に見せているんでしょうけど、誰も 見ていないと思って考込んでいる時には、スッカリ気が抜けているから、そん な風に本性があらわれているんじゃないかと思うのよ」 「ウップ。大変な名探偵が現われて来やがった。お前、探偵小説家になれよ。 キット成功する」 「まあ。あたし真剣に云ってんのよ。自烈[じれっ]たい。本当にあの人、気味 が悪いのよ」 「そういうお前の方がヨッポド気味が悪いや」 「憎らしい。知らない」 「もうすこし常識的に考えたらどうだい。第一、あの娘[こ]がだね。姫草ユリ 子が、何の必要があってソンナ骨の折れる虚構[うそ]を巧謀[たくら]むのか、 その理由が判明[わか]らんじゃないか。今までに持込んで来たお土産の分量だっ て、生優[なまやさ]しい金高[かねだか]じゃないんだからね。おまけに居[お] りもしないモウ一人の白鷹先生を創作して、電話をかけさせたり、歌舞伎座に 案内させたり、カステラを送らせたり、風邪を引かしたり、平塚に往診さした り、奥さんを三越の玄関で引っくり返らしたりなんかして……作り事にしても 相当骨が折れるぜ。況[いわ]んや俺たちをコンナにまで欺瞞[だま]す気苦労と いったら、考えるだけでもゾッとするじゃないか」 「……あたし……それは、みんなあの娘[こ]の虚栄だと思うわ。そんな人の気 持ち、あたし理解[わか]ると思うわ」 「ウップ。怪しい結論だね。恐ろしく無駄骨の折れる虚栄じゃないか」 「ええ。それがね。あの人は地道に行きたい地道に行きたい。みんなに信用さ れていたい信用されていたいと、思い詰めているのがあの娘[ひと]の虚栄なん ですからね。そのために虚構[うそ]を吐[つ]くんですよ」 「それが第一おかしいじゃないか。第一、そんなにまでしてこちらの信用を博 する必要がどこに在るんだい。看護婦としての手腕はチャント認められている んだし、実家[うち]が裕福だろうが貧乏だろうが看護婦としての資格や、信用 には無関係だろう。それ位の事がわからない馬鹿じゃ、姫草はないと思うんだ が」 「ええ。それあ解かってるわ。たとえドンナ女[ひと]だっても現在ウチの病院 の大切[だいじ]なマスコットなんですから、疑ったり何かしちゃ済まないと思 うんですけど……ですけど毎月二日か三日頃になると印形[はんこ]で捺[お]し たように白鷹先生の話が出て来るじゃないの。おかしいわ……」 「そりゃあ庚戌会がその頃にあるからさ」 「でも……やっぱりおかしいわ。それがキット会えないお話じゃないの……オ ホホ……」 「だから云ってるじゃないか。廻[まわ]り合わせが悪いんだって……」 「だからさ。それが変だって云ってるんじゃないの。廻り合わせが悪すぎて何 だか神秘的じゃないの」 「止せ止せ。下らない。お前と論議すると話がいつでも堂々めぐりになるんだ。 神秘も糞[くそ]もあるもんか。白鷹君に会えばわかるんだ。……茶を呉れ……」 私は黙って夕食の箸[はし]を置いて新調のフロックと着換えた。誰しも疑わ ない姫草ユリ子の正体をここまで疑って来た妻のアタマを小五月蝿[こうるさ] く思いながら……。 「とにかく今夜は是非とも白鷹君に会ってみよう。石を起し瓦をめくってもか。 ハハハ。エライ事に相成っちゃったナ……」 桜木町から二円を奮発した私が、内幸町[うちさいわいちょう]の丸の内倶楽 部へタクシーを乗付けたのが午後の八時半頃であったろうか。 実は女風情[ふぜい]の云う通りになるのがこの際、少々業腹[ごうはら]では あったが、自動車に乗り込むと同時に気が変って、狭苦しい迷宮じみた下六番 町あたりの暗闇を自動車でマゴマゴするよりも、解り易い丸の内倶楽部へアッ サリと乗付けたい気持になったからであった。 倶楽部の玄関で給仕に聞いてみると、 「庚戌会は今晩でございます。七時頃から皆さんお揃いで、モウかなりプログ ラムが進行しております」 という返事であった。 私は黙って、その給仕に案内されて広やかなコルク張の階段を昇って行った が、登って行くにつれて、二階中に満ち満ちている高潮したレコードと舞踏の ザワメキに気が付いた。 私はダンスは新米ではあるが自信は相当ある。ジャズ、タンゴ、狐足[ふぉ くすとろ]、靴拭[ちゃるすとん]、ワンステップ、何でも御座れの横浜仕込み だ。今やっているのはスパニッシュ・ワン・ステップのマルキナものらしいが 相当浮き浮きした上調子なもので、階段を上って行くうちに給仕の肩に手をか けたくなるような魅惑を感じた。 どうも驚いた。庚戌会といえば謹厳な学術の報告会、兼、茶話[さわ]会みた ようなものと思ったが、なかなかどうしてエライ景気だわい。会費の十円の意 味も読めるし、幹事の白鷹君の隅に置けない手腕の程も窺われる。こんな事な ら鹿爪[しかつめ]らしいフロック・コートなんか着て来るんじゃなかった…… と思ううちに待合室みたような部屋へ案内された。見ると周囲[まわり]の壁か ら卓子[てーぶる]の上、椅子、長椅子、小卓子[さいどてーぶる]の上までも帽 子と外套[がいとう]の堆積で一パイである。かれこれ五六十人分はあるだろう。 大会だけによく集まったものだ。 「ここでちょっとお待ちを願います。今お呼びして参りますから……」 といううちに給仕は右手の扉[どあ]を押して会場に這入った。トタンにジャ ズの音響が急に大きく高まって、会場の内部がチラリと見えたが、その盛況を 見ると私はアッと驚いた。 扉[どあ]の向うは恐ろしく広いホールで、天井一面に五色の泡みたようなも のがユラユラと霞んでいるのは、会員の手から逃出[にげだ]した風船玉であっ た。その下を渦巻く男女は皆タキシード、振袖[ふりそで]、背広、舞踏服なん どの五色七彩で、女という女、男という男の背中からそれぞれに幾個かの風船 玉が吊上っている。その風船玉の波が、盛り上るような音楽のリズムに合わせ て、不可思議な円型の虹のように、ゆるやかに躍り上り躍り上りホール一面に 渦を巻いている。桃色と、水色の明るい光線の中に……と思ううちに扉[どあ] がピッタリと閉じられた。 扉[どあ]が閉じられると間もなくレコードの音[ね]が止んだ。それに連れて 舞踏のザワメキが中断して、シインとなったと思う間もなく、タッタ今閉まっ た扉[どあ]が向側から開かれて、赤白ダンダラダンダラの三角の紙帽[かみぼ う]を冠ったタキシードが五六人ドヤドヤと雪崩[なだ]れ込んで来て、私の眼 の前の長椅子に重なり合って倒れかかった。襟飾[ねくたい]の歪[ゆが]んだの…… カフスのズッコケたの……鼻の横に薄赤い、わざとらしい口紅[みすぷりんと] の在るもの……皆グデングデンに酔っ払っているらしく、私には眼もくれずに、 長椅子の上に重なり合って、お互いに手足を投[なげ]かけ合った。 「ああ……酔っ払ったぞ。おい……酔っ払ったぞ俺あ……」 「ああ。愉快だなあ……素敵だなあ今夜は……」 「ウン。素敵だ……白鷹幹事の手腕恐るべしだ。素敵だ素敵だ……ウン素敵だ よ」 「驚いたなあ。ダンス・ホールを三つも総上げにするなんて……白鷹君でなく ちゃ出来ない芸当だぜ」 「……白鷹君バンザアイ……」 と一人が筒抜けの大きな声を出したが、その男が朦朧[もうろう]たる酔眼を 瞠[みは]って、両手を高く揚げながら立上ろうとすると、真先[まっさき]に私 の居るのに気が付いたと見えて、ビックリしたらしく尻餅を突いた。尻の下に 敷かれた友人の頭が虚空を掴んでいるのを構わずに、両手で膝頭を突張って、 真赤なトロンとした瞳[め]で私のフロック姿を見上げ見下していたが、忽[た ちま]ちニヤリと笑いながら唇を舐[な]めまわした。 「ヘヘッ……手品が来やがった」 「何だあ。手品だあ。どこでやってんだ」 「それ。そこに立ってるじゃないか」 「何だあ。貴様が手品屋か。最早[もう]、遅いぞオ。畜生。余興は済んじゃっ たぞオ」 私は急に不愉快になって逃出したくなった。相手の不謹慎が癪に障[さわ]っ たのじゃない。コンナ半間[はんま]な服装で、こうした処へ飛込んで来て、棒 のように立辣[たちすく]んでいる私自身が情なくて、腹立たしくなって来たの だ。しかし折角、ここまで来たものを白鷹氏に会わないまま帰るのも心残りと いう気もしていた。 「オイ。出来たかいフィアンセが……」 「ウン。二三人出来ちゃった」 「二三人……嘘つきやがれ」 「このミス・プリントを見ろ」 「イヨオオ。おごれおごれ」 「まだまだ、明日[あした]になってみなくちゃ、わからねえ。フィアンセがア ホイワンセになるかも知れねえ」 「アハハハ。ちげえねえ。解消ガールって奴が居るかんな。タキシの中で解消 するってんだかんな。タキシはよいかってんで……」 「初めやがった。モウ担がれねえぞ」 「ハアアア……アアア……何のかんのと云うてはみてもオ……抱いてみなけれ あエエ……アハハ。何とか云わねえか……」 「エエイ。近代魔術はタンバリン・キャビネット応用……タキシー進行中解消 の一幕。この儀お眼止まりますれば次なる芸当……まあずは太夫、幕下までは 控えさせられまあす」 「いよオオ――(拍手)、どうだいフロックの先生。雇ってくんないかい」 私はいよいよ逃腰になってしまったが、その時に向うの扉が静かに開[あ]い たので、もしやと思って固くなっていると、最前の給仕を先に立てて、私と同 じ位に固くなった一人の紳士が這入って来た。それは本格の舞踏服に白チョッ キを着込んだヒョロ長い中年紳士であったが、赤白ダンダラの三角帽を右手に 持って、左の掌[てのひら]に戴せた名刺を、私の顔と見比べ見比べ、私の前に 立止まると、青白い憂鬱な顔をしてジイッと見下した。 酔っ払った長椅子の連中がシインとなった。めいめいに好奇の眼を光らして 相手の紳士と、私の顔を見比べ初めた。 私は九州帝国大学在学当時の白鷹氏の写真を一葉持っている。九大耳鼻科部 長、K博士を中心にした医局全員のものである。それを白鷹氏の話が出るたん びに妻や姉に見せて、その時代の事を追懐したものであった。 だから私はこの時に、この紳士は白鷹先生である事を直ぐに認める事が出来 た。そうして長い年月の間どうしても会えなかった同氏に、かくも容易[たや す]く会えた事を、衷心から喜んでホッとした。 私はとりあえず眼の前の白鷹先生の前額から後頭部へかけて些[すく]なから ず禿[は]げていられるのに驚いた。今更に今昔の感に打たれたが、しかし姫草 看護婦から聞いた印象によって、白鷹先生が非常に磊楽[らいらく]な、諧謔的 [かいぎゃくてき]な人だと信じ切っていたので、イキナリ頭を一つ下げた。 「ヤア。白鷹先生じゃありませんか。僕は臼杵です。先日はどうもありがとう ございました」 と笑いかけながら一二歩近寄った。云い知れぬ懐かしさと、助かったという 思いを胸に渦巻かせながら……。 ところが私はその次の瞬間に面喰らわざるを得なかった。非常に不愉快な、 苦々しい表情をしいしい、微[かす]かに礼を返した白鷹先生の、謹厳[きんげ ん]この上も無い無言の態度と、数歩を隔てて真正面[まっしょうめん]に向い 合った私は、ものの二三分間も棒を呑んだように固くなって、突立っていなけ ればならなかった。多分白鷹氏は、こうした私の面会ぶりが、あまりにも突然 で狃[な]れ狃[な]れしいのに驚いて、面喰っておられた事と思う。況[いわ]ん や久しく物も云った事の無い人間にイキナリ「先日はありがとう」なぞと云い かけられたら誰だって一応は警戒するにきまっている。ことによると物慣[も のな]れた氏が、幹事役だけに私を、こうしたダンス宴会荒しの所謂[いわゆる] フロック・ギャングと間違えられたものかも知れないがその辺の消息は明らか でない。とにも角にもこうして二三分間睨[にら]み合ったまま立辣んでいるう ちに、私はとうとう堪えられなくなって次の言葉を発した。 「どうも……何度も何度もお眼にかかり損ねまして……やっとお眼にかかれて 安心しました」 こうした私の二度目の挨拶は、だいぶ固苦しい外交辞令に近づいていたよう に思うが、しかし白鷹氏は依然として私を見据[みす]えたまま、両手をポケッ トに突込んでいた。エタイのわからぬ人間に口を利くのは危険だと感じている かのように……。 こうして又も十秒ばかりの沈黙が続くうちに又も、広間の方向で浮き上るよ うなツウ・ステップのレコードがワアア――ンンと鳴り出した。 私の腋の下から氷のような冷汗がタラタラと滴[したた]った。私は又も、た まらなくなって唇を動かした。 「ところで……奥さんの御病気は如何[いかが]です」 「……エ……」 この時の白鷹氏の驚愕[きょうがく]の表情を見た瞬間に、私は最早[もう]、 万事休すと思った。 「妻[かない]が……久美子が……どうかしたんですか」 「ええ。三越のお玄関で卒倒なすったそうで……」 「ええッ。何時[いつ]頃ですか」 「……今朝の……九時頃……」 ドットいう哄笑[こうしょう]が爆発した。長椅子に腰をかけて耳を澄まして いたタキシード連が、腹を抱[かか]えて転がり初めた。笑いを誇張し過ぎて床 の上にズリ落ちた者も在った。 私は極度の狼狽[ろうばい]に陥った。失敬な連中……と思いながら私は、矢 庭[やにわ]にその連中の顔を睨み付けたが、これは睨んだ方が無理であったろ う。 そのうちに血色を恢復した白鷹氏の唇が静かに動き出した。 「……おかしいですね。妻[かない]は……久美子は今朝から教会の会報を書く のだと云ってどこへも行きません。無事に自宅[うち]におりましたが」 「ヘエッ。……嘘なんですか。それじゃ……」 「……嘘?……僕は……僕はまだ、何も云いませんが君に……初めてお眼にか かったんですが……」 又もドッと起る爆笑……。 「……姫草ユリ子の奴……畜生……」 白鷹氏は突然に眼を剥[む]き出して、半歩ほど背後[うしろ]によろめいた。…… が直ぐに踏止まって、以前の謹厳な態度を取返した。心配そうに息を切らしな がら、私の顔を覗き込むようにした。 「……姫草……姫草ユリ子が又……何か、やりましたか」 「……エッ……」 私は狼狽に狼狽を重ねるばかりであった。 「……又、何か……と仰言[おっしゃ]るんですか先生。先生は前からあの女…… ユリ子を御存じなのですか」 私は思わず発したこの質問が、如何に前後撞着した、トンチンカンなもので あったかを気付くと同時に、自分の膝頭がガクガクと鳴るのをハッキリと感じ た。……助けてくれ……と叫び出したい気持で、白鷹氏の次の言葉を待った。 その時に最前のとは違った給仕が一人、階段を馳上って来る音がした。 「横浜の臼杵先生がお出[い]でになりますか」 「僕だ僕だ……」 私はホッとしながら振向いた。 「お電話です。民友会本部から……」 「民友会本部……何という人だ」 「どなたかわかりませんが、横浜からお出[で]になった代議士の方が、本部で 卒倒されまして、鼻血が出て止まりませんので……すぐに先生にお出でが願い たいと……」 「待ってくれ……相手の声は男か女か……」 「御婦人の声で……お若い……」 給仕は何かしらニヤニヤ笑った。 「……馬鹿な……名前も云わない人に診察に行けるか。名前を聞いて来い。そ うして名刺を持った人に迎えに来いと云え」 これは私のテレ隠しの大見栄[おおみえ]と、同席の諸君に解せられたに違い 無いと思うが、その実、あの時の私の心境は、そんなノンビリした沙汰ではな かった。……卒倒して鼻血……という言葉がアタマにピンと来た私は、すぐに 今朝[けさ]ほどの白鷹夫人に関する彼女の報道を思い出したのであった。 彼女……姫草ユリ子は、鼻血が出て止まらない場合に、耳鼻科の医師が如何 [いか]に狼狽し、心配するかを、どこかで実地に見て知っていたに違い無い。 だから私が裏切り的に庚戌会に出席した事を、電話か何かで探り知った彼女は、 狼狽の余り、おなじ日に、おなじ種類の患者を二度も私にブツケルようなヘマ な手段でもって、私と白鷹氏の会見を邪魔しようと試みたものであろう。絶体 絶命の一生懸命な気持から、果敢[はか]ない万一を期したものではあるまいか。 もちろん偶然の一致という事も考えられない事は無いが、彼女を疑うアタマに なってみると断じて偶然の一致とは思えない。私は彼女……姫草ユリ子の不可 思議な脳髄のカラクリ細工にマンマと首尾よく嵌[は]め込まれかけている私の 立場を、この時にチラリと自覚したように思ったのであった。 私は一生涯の中[うち]にこの時ほど無意味な狼狽を重ねた事は無い。 私はそのまま列席の諸君と白鷹氏にアッサリと叩頭[おじぎ]しただけで、無 言のままサッサと部屋を出た。又も湧き起る爆笑と、続いて起るゲラゲラ笑い とを、華やかに渦巻くジャズの旋律と一所にフロックの背中に受け流しながら、 蒼惶[そうこう]として階段を駈け降りた。通りがかりのタクシーを拾って東京 駅に走りつけた。そうして気を落付けるために、わざと二等の切符を買って、 桜木町行きの電車に飛乗った。何だか横浜の自宅に容易ならぬ事件でも起って いるような気がして……妻[かない]が愛読している探偵小説の書き振りを見て も、留守宅に大事件が起るのは十中八九コンナ場合に限っているのだから…… と云ったような想像が、別段考えるでもないのにアトからアトから頭の中に湧 き起って、たまらない焦燥[しょうそう]と不安の中に私を逐[お]い込んで行く のであった。あの時の私の脈搏[ぷるす]は、たしかに百以上を打っていたに違 い無い。 けれどもそこで無人の二等車の柔らかいクションの上にドッカリと腰を卸 [おろ]して、ナナの煙を一ぷく吹上げると間もなく、私の心境に又も重大な変 化が起った。窓越しに辷[すべ]って行く銀座の、美しい小雨の中のネオンサイ ンを見流して行くうちに、現在、何が何だかわからないままに、無意味に、止 め度もなく面喰らわされているに違い無い私自身を、グングンと痛切に自覚し 初めたのであった。 ……俺はなぜアンナに慌[あわ]てて飛出して来たのだろう。なぜ、もっと突 込んで姫草の事を白鷹氏に尋ねてみなかったのだろう。白鷹氏は彼女の事に就 いてモットモット詳[くわ]しく知っているらしい口吻[くちぶり]であったのに…… もう一度白鷹氏と会えるかどうか、わからなかったのに……と気が付いたので あった。 ……いずれにしても白鷹氏と姫草ユリ子とが全然、無関係でない事は確実 [たしか]だ。私の知っている以外に姫草ユリ子は白鷹氏に就いて何事をか知り、 白鷹氏も姫草ユリ子に就いては何事かを知っている筈なのに……。 そう考えて来るうちに、私の頭の中に又も彼の丸の内倶楽部の広間を渦巻く、 燃え上るようなパソ・ドブルのマーチが漂[ただよ]い初めた。 私は又も彼女を信用する気になって来た。私は彼女がコンナにまで深刻な、 根気強い虚構[うそ]を作って、私たちを陥れる必要がどこに在るのかイクラ考 えても発見出来なかった。それよりも事によると私は、姫草ユリ子に一杯喰わ される前に、白鷹氏に一杯かつがれているのかも知れない……と気が付いたの であった。第一、この間、電話で聞いた白鷹氏の朗らかな音調と、今日会った 白鷹氏のシャ嗄[が]れた、沈んだ声とは感じが全然違っていた事を思い出した のであった。 ……そうだ。白鷹氏は故意[わざ]と、あんなに冷厳な態度を執[と]って後輩 の田舎者である俺を欺弄[かつ]いでおられるかも知れない。アトで大いに笑お うと云う心算[つもり]なのかも知れない。東京の庚戌会に出席して斯界[しか い]のチャキチャキの連中と交際し、連絡[わたり]を付けるのは地方開業医の 名誉であり、且、大きな得策でもあり得るのだから、その意味に於[おい]て優 越な立場に居る白鷹氏はキット俺が出席するのを見越して、アンナ風に性格を カモフラージして色々な悪戯[いたずら]をしておられるのかも知れない。 ……そうだそうだ。その方が可能性のある説明だ。それがマンマと首尾よく 図に当ったので、あんなに皆して笑ったのかも知れない。 ……と……そんな事まで考えるようになったが、これは私が元来そういった 悪戯[いたずら]が大好きで、懲役に行かない程度の前科者であったところから、 自分に引較べて推量した事実に過ぎなかったであろう。同時にそこには姫草ユ リ子から植え付けられた白鷹氏の性格に関する先入観念が、大きく影響してい た事も自覚されるのであるが、とにもかくにも事実、そんな風にでも考えを付 けて、気を落付けておかねば、すぐに、この上もなく非常識な、恐ろしい不安 がコミ上げて来て、トテモ凝然[じっ]として三十分間も電車に乗っておれない 気がしたのであった。それでも電車がブンブン揺れながら、暗黒の平地を西へ 西へと走るのが、たまらなく恐ろしくなって、途中で飛降りてみたくなったく らい私は、一種探偵小説的に不可解な、不安な昂奮の底流れに囚われていたの であった。横浜へ帰ったら、私の家族と、私の病院が、姫草ユリ子諸共[もろ とも]に、何処かへ消え失せていはしまいか……といったような……。 桜木町駅に着いたのは何時頃であったろうか。そこから程近い紅葉坂の自宅 まで、何かしら胸を騒がせながら、雨上りの道を急いで行くと、突然に背後 [うしろ]の橋の袂[たもと]の暗闇から、 「……臼杵センセ……」 と呼び掛ける悲し気な声が聞えて来たので、私はちょうど予期していたかの ようにギクンとして立佇まった。それは疑いも無いユリ子の声であった。 ユリ子は今日の午後、外出した時の通りの姿で、黒い男持の洋傘[こーもり] を持っており、夜目にも白い襟化粧をしていたが、気のせいか瞼の縁が黒くなっ ていたようであった。 彼女は、その洋傘[こーもり]を拡げて、人目を忍ぶようにして私に寄添った。 そうして平常[いつも]の快濶さをアトカタも無くした陰気な、しかしハキハキ した口調で問いかけた。 「先生。庚戌会へお出[いで]になりまして……?……」 「ウン。行ったよ」 「白鷹先生とお会いになりまして……?……」 「……ウン……会ったよ」 「白鷹先生お喜びになりまして……」 「いいや。とてもブッキラ棒だったよ。変な人だね。あの先生は……」 私は幾分、皮肉な語気でそう云ったつもりであったが、彼女はもうトックに 私のこうした言葉を予期していたかのように、私の顔をチラリと見るなり、淋 しそうな微笑を横頬に浮かめて見せながら点頭[うなず]いた。 「ええ。キットそうだろうと思いましたわ。けれども先生……白鷹先生はホン トウはアンナ方じゃないのですよ」 「フーン。やっぱり快濶な男なのかい」 「ええ。とっても面白いキサクな方……」 「おかしいね。……じゃ……どうして僕に対してアンナ失敬な態度を執[と]っ たんだろう」 「先生……あたしその事に就いて先生とお話したいために、きょう昼間からズッ トここに立って、先生のお帰りを待っておりましたのですよ。でも……お帰り が電車か、自動車かわからなかったもんですからね」 そう云ううちに彼女は二三度、派手な縮緬[ちりめん]の袂を顔に当てたよう であったが、それでも若い娘らしいキリッとした態度で、多少憤慨したらしい 語気を混交[まじ]えながら、次のような驚くべき事実を語り出した。 私はその時に彼女から聞いた白鷹先生の家庭に関する驚くべき秘密なるもの を、ここに包まず書き止めておく。これは決して白鷹先生の家庭の神聖を冒涜 [ぼうとく]する意味ではない。私が同氏の人格をこの上もなく尊敬し、信頼し ている事実を告白するものである事を固く信じているからである。同時に姫草 ユリ子の虚構[うそ]の天才が如何に驚くべく真に迫ったものがあるかを証明す るに足るものがあると信ずるからである。普通人の普通の程度の虚構[うそ]で は、到底救い得ないであろう。こうした惨憺たる破局的な場面を、咄嗟[とっ さ]の間に閃めいた彼女独特の天才的な虚構……十題話式[うそ]の創作、脚色 の技術を以[もっ]て如何に鮮やかに、芸術的に収拾して行ったか。 私は光りと騒音の川のような十二時近くの桜木町の電車通りの歩道を、彼女 と並んで歩きながら、彼女の語り続けて行く驚くべき真相……なるものに対し て熱心に耳を傾けて行ったのであった。 白鷹氏……きょう会った謹厳そのもののような白鷹氏は、K大耳鼻咽喉科に 在職中、姫草ユリ子をこの上もなく珍重し、愛寵[あいちょう]した。そうして 宿直の夜になると、そうした白鷹氏の彼女に対する愛寵が度々、或る一線を超 えようとするのであった。 しかし無論、彼女はそれを喜ばなかった。 彼女の念願は看護婦としての相当の地位と、教養とを作り上げた上で、女医 としての資格を得て、自分の信ずる紳士と結婚して、大東京のマン中で開業す る……そうして相携[あいたずさ]えて晴れの故郷入りをする……という事を終 生の目的としておったので、故なくして他人の玩弄[がんろう]となる事を極度 に恐れた彼女は、遂に絶体絶命の意を決して、この事を直接に白鷹氏の令閨 [れいけい]、久美子夫人に訴えたのであった。 然るに久美子夫人は、彼女の想像した通り、世にも賢明、貞淑な女性であっ た。世の常の婦人ならば斯様な場合に、主人の罪は不問に附して、当の相手の 無辜[むこ]の女性の存在を死ぬほど呪咀[のろ]い、憎悪[にく]しむものである が、物わかりのよい……御主人の結局のためばかりを思っている久美子夫人は、 彼女のこうした潔白な態度を非常に喜んだ。そうして彼女をこの上もなく慈 [いつくし]んで、末永く自宅に置いて世話をしてやりたい。間違いの無いよう にという考えから、本年の二月以降、下六番町の自宅に、彼女を寝泊りさせる ように取計らったが、これに対しては流石[さすが]の白鷹氏も、一言の抗議さ え敢[あ]えてしなかったという。 ところが久美子夫人の彼女に対するこうした好意が、端[はし]なくも彼女に 職を失わせる原因となった。彼女の看護婦としての優秀な手腕を、兼ねてから 嫉視[しっし]していた上に、彼女のそうした過分の寵遇を寄ると触[さわ]ると 妬[そね]み、羨み初めた仲間の新旧の看護婦連中が、とうとう彼女を白鷹助教 授の第二夫人と云ったような噂を捏造[ねつぞう]して、八釜[やかま]しく宣伝 し初めたので、彼女は、久美子夫人に対して気の毒さの余り、身を退[ひ]く事 をお願いすると、夫人も涙ながらに承知して、分[ぶん]に過ぎた心付[こころ づけ]を彼女に与えたので、ユリ子はさながらに姉と妹が生き別れをするよう な思いをして、下谷の伯母の宅[うち]に引取る事になったという。それが本年 の五月の初めで、それから方々職を探しているうちに臼杵病院へ落ち付いたの でホッと一息した……と云う彼女の告白であった。 「……ですからこの間から白鷹先生が、どうしても臼杵先生にお会いにならな い理由も、あたしにチャンとわかっておりましたわ。妾[わたし]きょう白鷹の 奥さんにお眼にかかって、今までの気苦労を何もかもお話したのです。もしも 臼杵先生と白鷹先生がスッカリ親友におなりになって、ソンナ事情がおわかり になった暁に、白鷹先生に気兼[きがね]をなすった臼杵先生が、妾にお暇[い とま]を下さるような事があったらどうしましょうってね……そうしたら奥様 も涙をお流しになって、決して心配する事は無い。これから先ドンナ事があっ ても臼杵先生の処を出てはなりません。そのうちに妾から臼杵先生によく頼ん で上げますっていう、ありがたいお話でしたの……ですから妾、大喜びの大安 心で横浜へ帰って来るには来たんですけど、きょう臼杵先生が白鷹先生にお会 いになった時に、白鷹先生がドンナ態度をお執[と]りになるか……如才ない方 だから案外アッサリと御交際になるに違い無いとは思うんですけど、又よく考 えてみると、男の方ってものは、コンナ事にかけてはずいぶん思い切った卑怯 [ひきょう]な事をなさるものですから……まあ、御免遊ばせ。ホホ……そう思 いますと、恐ろしくて恐ろしくて仕様がなくなって来たんですの。もしかする と白鷹先生は、今までの事を一つも知らないような顔をなすって、平常[へい ぜい]と違ったブッキラボーな初対面の態度で、臼杵先生を失望おさせになる かも知れない。そうして云わず語らずの間に妾の立場を無いようになさるかも 知れない。妾を根も葉もない虚構吐[うそつ]き女のインチキ娘に見えるように、 お仕向けになるかも知れない……と気が付きますと、居ても立ってもいられな くなって、先生のお帰りをあすこで待っているよりほかに妾、仕様がなくなっ たんですの。 ……ね……臼杵先生。先生が一番最初に白鷹先生に紹介してくれって仰言 [おっしゃ]った時に、妾がスッカリ憂鬱になって、お断りしかけた事を記憶 [おぼ]えておいでになるでしょう。妾、あの時に何だかコンナ事が起りそうな 気がして仕様がなかったもんですからアンナ風に躊躇[ちゅうちょ]したんです けど、大切な先生がアンナに熱心にお頼みになるもんですから、思い切って妾 の事なんか構わないで、白鷹先生にお電話をかけたんですの。 ……ねえ……臼杵先生。ですから白鷹先生が、どうしても貴方にお会いにな らなかった理由[わけ]が、最早[もう]おわかりになったでしょう。白鷹先生は 貴方が最早、妾から何もかもお聞きになっている事と思い込んでおいでになる もんですから、先生から顔を見られる事を、どうしてもお好みにならなかった んですよ。……ですから一度は是非とも会わなければならない。けれども会い たくない……といったような気持から、あんなような策略を何度も何度もお使 いになったに違い無いと思うんですの。あたし……白鷹先生の、そういったお 気持がよくわかっていたもんですから……口惜[くや]しくって口惜しくって……。 ……あたし……他家[よそ]のお家庭[うち]の秘密なんか無暗[むやみ]に喋舌 [しゃべ]る女じゃないのに……妾をドコまでもペシャンコのルンペンにして、 世の中に浮かばれないようになさるなんて……先生のおためばっかり思って上 げているのに……K大でアンナに一生懸命に働らいて上げたのに……あんまり…… あんまり……あんまりですわ……」 彼女は路傍[みちばた]の砂利積[じゃりづみ]に撒布[まい]た石灰[いしばい] の上に黒い洋傘[こーもり]を投出して、両袂[りょうそで]を顔に当てながら泣 きジャクリ始めた。 気が付いてみると私等二人は、いつの間にか紅葉坂の自宅の石段の下まで来 て、向い合ったまま立っていた。折から通りがかりの労働者らしい者が二三人、 妙な眼付きで振返って行ったが、あの連中の眼には私等二人が何と見えたであ ろう。 私はヤットの思いで彼女をなだめ賺[す]かして病院に帰らせた。しかしその 時にドンナ言葉で彼女を慰めたか、全く記憶していない。万一記憶していたら ドンナにか白鷹氏の憤慨に価する云い草ばかり並べていた事であろう。 直ぐ横の石段を上って、路地の突当りに在る自宅の玄関の古ぼけた格子扉 [こうしど]を開いたトタンに、奥座敷のボンボン時計が一時を打った。二十分 近く進んでいたにしても彼女との立話がずいぶん長かった事を思い出して、私 は一人で赤面してしまった。そうして無事太平らしい家[うち]の中の気[け]は いを察して、吾[わ]れ知らずホ――ッと胸を撫[な]で卸[おろ]した事であった。 ところがその安心は要するに私の一時の糠喜[ぬかよろこ]びに過ぎなかった。 電車の中で私が抱き続けて来た一種異様な鬼胎観念[しんぱい]は、やはり意外 千万な意味で物の美事に的中していたのであった。 心持ち昂奮気味で、慌[あわただ]しく私を出迎えた寝間着姿の姉と妻は、私 の顔を見るや否[いな]や口を揃えて問いかけた。胸倉を取らんばかりに、 「白鷹先生にお会いになって……」 と左右から詰問するのであった。 「ウン会ったよ」 「姫草さんとは……」 「今、そこまで話して来た」 姉と妻とは顔を見合わせた。無言の二人の頬には、恐怖の色がアリアリと浮 んでいた。その顔を見ながら鼠の中折帽を脱[と]った瞬間に私は、探偵小説の 深夜の一頁の中に立たされている、私自身を発見したような鬼気に襲われたも のであった。 「姫草さんとドンナお話をなすったの」 「ウム。まあお前達から話してみろ」 「貴方から話して御覧なさいよ」 「……馬鹿……おんなじ事じゃないか。話してみろ」 「だって貴方……」 「茶の間へ行こう。咽喉[のど]が乾いた」 それから熱い番茶を飲みながら聞いた二人の女の話を聞いているうちに何と…… 今の今まで私の脳味噌の中に浮かみ現われていた奇妙な家庭悲劇の舞台面が、 いつの間にかグルグルと一変してしまったのであった。 私の留守中に、病気で寝ておられる筈の白鷹久美子夫人から、臼杵病院へ電 話が掛ったのであった。それは約二時間前に私に面会した白鷹助教授が、すぐ に下六番町の自宅へ電話をかけた結果であったらしく、非常に冷静な、同時に この上もなく友誼的[ゆうぎてき]な口調で、白鷹夫人が私の一家に対して警告 してくれたものであった。 相手に出たのは妻の松子だったそうであるが、その時に白鷹夫人から聞いた 事情なるものは、女の耳に取って真に肝も潰れるような事ばかりであったとい う。 勿論[もちろん]、姫草ユリ子の言葉にも多少の真実性はあった。彼女は確か にK大耳鼻科に居た事のある姫草ユリ子と同一人には相違なかった。彼女の看 護婦としての技術が、驚異に価すべくズバ抜けた天才的なものであった事も事 実には相違なかったが、しかし、同時に、実に驚異に価する程のズバ抜けた、 天才的な虚構[うそ]の名人であった事も周知の事実であったと云うのである。 すこし社会的に著名な人物なぞが、K大の耳鼻科に入院すると、彼女、姫草 ユリ子は彼女独特の敏捷[びんしょう]な外交手腕でもって他人を押除けて看護 [おしの]の手を尽すのであった。そうしてそのような人々から一も姫草、二も 姫草と云わせるように仕向けないでは措[お]かないのであった。その結果、ど うして手に入れたものか、そのような患者から貰ったという貴重品なぞを、自 慢そうに同輩に見せびらかす事が度々であったという。 そればかりでない。彼女はそんな身分のある家族の方々の中[うち]の誰かと 婚約が出来た……なぞと平気で云い触らしたりなぞしているかと思うと、おし まいには、やはりズット以前に入院した事のある映画俳優か何かの胤[たね]を 宿したから、堕胎[だたい]しなければならぬ……といったような事を臆面[お くめん]もなく看護婦長に打明け(?)て、長い事病院を休む。そのほか医員 の甲乙[たれかれ]と自分との関係を、自分の口から誠しやかに噂[うわさ]に立 てる……といった調子で、風儀を乱すことが甚しいので、とうとうK大耳鼻科 長、大凪[おおなぎ]教授の好意によって諭示[ゆじ]退職の処分をされる事になっ たという。 しかし以前からメソジストの篤信者[とくしんじゃ]であった白鷹久美子夫人 は、兼ねてから彼女のそうした悪癖に対して一種の同情を持っていた。そうし て彼女の才能と行末を深く惜しんだものらしく、彼女が首になると同時に自宅 に引取って、あらん限りの骨を折って虚構[うそ]を吐[つ]かないように教育し た。キリストの聖名[みな]によって彼女の悪癖を封じようと試みたものであっ た。 ところが、それが彼女に取っては堪[た]まらなく窮屈なものであったらしい。 とうとう無断で白鷹家を飛出して行方を晦[くら]ましてしまったので、どこへ 行ったものであろうと明け暮れ久美子夫人が気にかけているうちに突然、本年 の六月の初め頃、ユリ子から電話が掛かって来て、今は横浜の臼杵病院に居る。 妾も、それから後[のち]、虚構[うそ]を吐[つ]くのをピッタリと止めて、臼杵 先生から信用されているから、以前の事は、どうぞ助けると思って秘密にして 頂きたい……という極めてシオらしい話ぶりであったと云う。 しかし彼女の性格を知り抜いている白鷹夫人は容易に彼女の言葉を信じなかっ たばかりでなく、それ以来、一種形容の出来ない不安に包まれていた。又あの 女が臼杵家に入込[いりこ]んで、まことしやかな虚構[うそ]を吐いて、臼杵家 を撹乱[かくらん]しようと思っているに違いない。それにつれてK大や、白鷹 家の事に就いても、どんな出鱈目[でたらめ]を臼杵先生に信じさせているか解 らない……という心配から、夫人が内々で妻の松子に宛てて、臼杵病院の所づ けで度々、ユリ子の行状に関するさり気ない問合わせの手紙を出したそうであ るが、それは多分、彼女が握[にぎ]り潰[つぶ]したものであろう、一度も返事 が来なかった。 白鷹夫人の心配は、そこでイヨイヨ昂[たか]まる事になった。これはもしか したらあの嘘吐[うそつ]きの名人の言葉を真正面[まっしょうめん]から信じ切っ ている臼杵家の連中が、白鷹家を軽蔑して全然、取合わない事にキメているの ではあるまいか。しかし、そうかといって、あんまり執拗[しつこ]い、急迫し た手段で、臼杵家に交際の手蔓[てづる]を求めるのも、こっちが狼狽している ようでおかしい……と云ったようないろいろな気兼[きがね]から、いよいよ形 容の出来ない、馬鹿馬鹿しく不愉快な、不安に陥って行った。殊に気の小さい、 神経質な白鷹氏はユリ子の悪癖を極度に恐れているらしく、この頃では夫婦で 寄ると触[さわ]ると、そんな事ばかり話合っていたところへ、きょう主人が臼 杵先生にお眼にかかってみると、どうも御様子が変テコだから一応、電話でお 伺いしてみろ。臼杵先生は大変にソワソワして昂奮しておられるようだったが、 何か又あの女が余計な事を仕出かしたのかも知れないから、早く電話をかけと いた方がいいだろう。ユリ子が取次に出るか出ないか……という主人の言葉だっ た……という久美子夫人の話で、聞いていた妻の松子は、電話口に立っておら れない程、赤面させられてしまったという。 しかし、それでも妻の松子は、同時にタマラない程不安な気持に包まれてし まったので、なおも勇[ゆう]を鼓[こ]して通話を伸ばしてもらいながら、色々 と久美子夫人に問い訊[ただ]してみると案の定……今日まで姫草ユリ子が云い 立てて来た事は、一から十までと云ってもいい位、事実無根の事ばかりであっ た。白鷹先生の平塚往診の事実も、歌舞伎座見物の話も、当日の久美子夫人の 三越の玄関での卒倒事件も、又は姫草がお見舞いに伺ったという事実までも皆、 彼女の驚くべき出鱈目という事実が判明したというのであった。 私はその話を聞いているうちにグングンと高圧電気にかかって行くような感 じがした。臼杵病院のマスコット。看護婦の天才。平和の鳩の生れ変りかと思 われる姫草ユリ子の純真無邪気な姿が、見る見るレントゲンにでもかけられた ような灰色の醜い骸骨の姿に解消して行く光景を幻視した。同時にタッタ今、 泣きながらクラ暗[やみ]の紅葉坂[もみじざか]を病院の方へ降りて行ったユリ 子の姿を、浮き上るようなスパニッシュ・ワンステップのリズムと一所に思い 出しつつ、私の顔を一心に凝視している姉と妻の、青褪[あおざ]めた顔を見比 べながら、何とも云えない不可思議な恐怖の感じを、背筋一面に匐[は]いまわ らせていた。 その時に又も新しい茶を入れた妻の松子が、話に段落でも付けるように、長 い深いタメ息を一つ吐[つ]きながらコンナ奇妙な事を云い出した。 「ねえ貴方。姫草っていう娘[こ]は何て不思議な娘[こ]でしょう。まったく掴 ませられている事がハッキリわかっているのに妾、どうしてもあの娘[こ]を憎 む気になれないのよ。白鷹の奥さんも、やっぱり妾たちとオンナジ気持で、あ の娘[こ]をお可愛がりになったに違いない事が、今やっとわかったのよ。今の 今までお姉さんと、その事ばっかり話していたとこなのよ」 この言葉を聞いた時に私はヤット決心が付いた。彼女……姫草ユリ子の不可 思議な、底の知れない魅力……今では私の姉や妻までもシッカリと包み込んで しまっている恐るべき魔力に気が付いたので思わずホッと溜息を吐[つ]いた。…… と同時に、その美しい霧が何ぞのように蔽[おお]いかぶさって来る彼女の魔力 から、逃れ出る一つの手段を思い付いたので……それは少々乱暴な、卑怯に類 した手段ではあったが……姉にも妻にも故意[わざ]と一言も云わないまま立上っ て、今一度、玄関に出て帽子を冠[かむ]った。妙な顔をして見送る二人にどこ へ行くとも云わないで靴を穿[は]いた。そのまま勢よく紅葉坂の往来へ飛出し たが、何と云う恐ろしい事であろう。その時、坂の下一面に涯[は]てしもなく 重なり合っている黒い屋根や、明滅する広告電燈や、その上に一パイに散らばっ ている青白い星の光までもが皆、彼女の吐[つ]き散らかした虚構[うそ]の残骸 そのもののように思われるのであった。 私は身ぶるいを一つしながら紅葉坂を馳け降りた。来合わせたタキシーを拾っ て神奈川県庁前の東都日報支局に横付けて、中学時代の同窓であった同支局主 任の宇東[うとう]三五郎をタタキ起して、程近い鶏肉屋[とりや]の二階に上っ た。そこで「面白いネタになるかも知れないが」と云うのを切出しに、彼女に 関する今までの事実を逐一[ちくいち]、包まずに説明して、一体どうしたもの だろうと宇東主任の意見を聞いてみた。 自慢の船長髯[ひげ]をひねりひねり黙って聞いていた宇東三五郎は、やがて 私の顔を見てニンガリと薄笑いをした。彼一流の卒直な口調で質問した。 「ふうん。そこで僕は君から一つ真実の告白を聞かせてもらわにゃならん」 「何も告白する事は無いよ。今の話の外[ほか]には……」 「ふうん。そんなら彼女と君との間には何の関係も無いチウのじゃな」 「……馬鹿な……失敬な……俺がソンナ……」 「わかったわかった。それでわかったよ」 宇東三五郎は突然マドロスパイプを差上げて叫んだ。 「わかったわかった。赤たん赤たん」 「えっ。赤たん……?……何だい赤たんて……」 「赤チュウタラ赤たん。主義者[あか]以外に、そんげな奇妙な活躍する人間は 居らんがな。現在、そこいらで地下運動をやっとる赤の活躍ぶりソックリたん。 まだまだ恐ろしいインチキの天才ばっかりが今の赤には生き残っとるばんたん。 そんげな女[おなご]をば養うとくぎり、今に飛んでもない目に会うば……アン タ……」 「うん。ヤッとわかった。その赤カンタン。しかし真逆[まさか]にあの娘が、 そんな大それた……」 「いかんいかん。それが不可[いか]んてや。其様[そんげ]風に思わせるところ が、赤一流の手段の恐ろしいところばんたん。赤にきまっとる。赤たん赤たん。 それ以外にソンゲな奇怪な行動をする必要がどこに在るかいな。その姫草ちう 小娘は、君の病院を中心にして方々と連絡を保っとる有力な奴かも知れんてや」 「ウ――ム。それはそう思えん事も無いが、併[しか]し僕の眼には、ソンナ気 ぶりも見えないぜ」 「見えちゃあタマランてや。君等のようなズブの素人に見える位の奴ならモウ、 とっくの昔に揚げられてブランコ往生しとるてや」 「フ――ム。そんなもんかなあ」 「とにかくその娘ん子は吾々の手に合うシロモノじゃないわい。第一、今のよ うな話の程度では新聞記事にもならんけにのう。今から直ぐに特高課長の自宅 に行こう」 「エッ。特高課長……」 「ウン。しかし仕事は一切吾々に任せちくれんと不可[いか]んばい。悪うは計 らわんけにのう」 「どこだい特高課長は……遠いのかい」 「知らんかアンタ」 「知らんよ」 「知らんて君の自宅[うち]の隣家[となり]じゃないか」 「エッ。隣家[となり]……」 「うん。田宮ちゅう家[うち]がそうじゃ。迂濶[うかつ]やなあ君ちうたら……」 「俺が赤じゃなし。気も付かなかったが……」 「その何草とか云う小娘は、君の家[うち]よりもその隣家[となり]が目標で、 君に近付きよるのかも知れんてや。それじゃから俺は感付いたんじゃが……」 「成る程なあ。その田宮ちう男なら二三度門口[かどぐち]で挨拶した事がある。 瓦斯[がす]を引く時にね。人相の悪い巨[おお]きな男だろう」 「ウン。それだそれだ。知っとるならイヨイヨ好都合じゃ。直ぐに行こうで…… チョット待て、支局から電話をかけておこう」 話はダンダンと急テンポになって来た。話のドン底が眼の前に近付いて来た ようであるが、果してそのドン底から何が出て来るであろうか。 私は何となく胸を轟かしながら宇東と一所にタキシーに飛び乗った。 田宮特高課長は、もうグッスリ眠っていたそうであるが、職掌柄[しょくしょ うがら]、嫌な顔もせずに二階の客間で会ってくれた。 長脇差[ながわきざし]の親分じみた、色の黒い、デップリとして貫禄のある 田宮氏は、褞袍[どてら]のまま紫檀の机の前に端然と座って、朝日を吸い吸い 私の話を聞いてくれたが、聞き終ると腕を組んで、傍の宇東記者をかえり見た。 つぶやくように云った。 「赤じゃないかな」 それを聞いた時、私は又もドキンとさせられた。思わず膝を進めながら恐る 恐る尋ねた。 「赤としたらどうしたらいいでしょうか」 田宮氏は冷然と眼を光らせた。 「引[ひ]っ括[くく]って見ましょうや」 「……エッ……引っ括る……どうして……」 「明朝……イヤ……今朝[けさ]ですね。夜が明けたら直ぐに刑事を病院に伺わ せますから、それまでその看護婦を逃がさないように願います」 「そ……それはどうも困ります」 と宇東三五郎が気を利かして慌ててくれた。 「実はそこのところをお願いに参りましたので。臼杵君も開業匆々[そうそう] 赤の縄付[なわつき]を出したとあっては……」 「アハハ。いかにも御尤[ごもっと]もですな。それじゃこう願えますまいか。 明朝なるべく早くがいいですな。何かしら絶対に間違いの無い用事をこしらえ てその娘を外出させて下さいませんか。行先がわかっておれば尚更結構ですが」 「……承知しました。それじゃこうしましょう。僕が南洋土産の巨大[おおき] な擬金鋼石[あれきさんどりあ]を一個[ひとつ]持っております。姉も妻[かな い]もアレキサンドリアが嫌いなので、始末に困っておるのですが、それをあ の娘に与[や]って、直ぐに指環[ゆびわ]に仕立るように命じて伊勢崎町の松山 宝石店に遣りましょう。遅くとも九時から十時までの間には、出か